(1)風と波
海を味わうには世界で一番大きな北太平洋がふさわしいとおもった。実際、処女航海の私にはかなり厳しいものであったが、大西洋を2回シングルハンドで横断し、私と同時期に北太平洋を横断したイタリアのアレキサンドロ氏が、今回の航海は大西洋と比べて10倍厳しかったといっていたから厳しい方に入るのだろう。まず光があまりない。曇りか霧か、そして大概は寒い。サングラスを二つ用意していったが、使用したのは一度だけである。 私がとった航路は北緯35度の和歌山をでて30度までさがり、40度までのぼり、また36度までさがり、更に44度近くまであがり、38度のサンフランしスコに入ったのだから少し遠回りをしたようだ。
最短5000マイルほどのところを7000マイル強走ったことになり約1ヶ月長い道のりに相当する。このようになったのは、より安全なコースをとることや風の方向を考えてのことだが、気象のスピードは船速にくらべ5−10倍早く、温帯低気圧はその範囲が何千キロにもなるから結局逃げられないのが現実であった。エンジンを使えば少しは逃げられたかもしれないが私の流儀ではない。オートパイロットを多用すれば少しは近道をとれたかもしれないが、これも自然流に反する。
日本近海は日本列島に沿って低気圧の通路であるが、此れと平行して180度にいたる中間域も今年はよく低気圧が通ったように思う。低気圧は北に上れば発達する。北緯40度あたりで低気圧が突如発生することもある。低気圧になる前の気圧の谷も結構風を吹かす。これらは上空の冷たい気流により生じるもののようだ。北太平洋上は島がないからどこも気象に変化を与えるところはない。だから雲も平面で一様である。入道雲もない。目に見えるところの変化は雲だから、雲が日照時間に変化をあたえて気象の違いを演出する程度であろう。だから上空の気流の温度変化が重要なのは納得がいく。いずれの場合も風は低気圧や気圧の谷がくると強くなる。気圧傾度が風の強さを支配するからだ。低気圧の気圧が低ければ勿論風は強いが、高気圧が近くにあるかどうかも極めて重要である。高気圧は右回り、低気圧は左回りだから、その間は同じ方向の風となり強さをます。温帯性低気圧も980パスカル位になると台風並みだ。一度、風30m以上、波高12mと脅かされたことがあった。
横転はあったが、外を見ていないのでどれだけの波かはわからない。風に流されるように走っているから一番安全な状態だが、波は始終横からも後ろからもかぶっていた。キャビン内はハッチも目張りしたが、その隙間から押し寄せる海水が入る状態であった。横倒しにしたのは明らかにランダムウェーブだとおもう。はぐれ波だ。船全体を持ち上げて投げ下ろす感覚だろう。そのときのふねと波の角度、ふねの重量などが微妙に効くに違いない。
波は風によって作られるが、波は遠くのほうからも来る。安全な航海をするには波のほうが重要だ。特にどこからくるかわからない、ランダムウェーブは性質がわるい。
陸地から離れれば離れるほど波は自由度を増し、方向がまちまちになる。これは前にも述べたが遠方の風の影響であろう。それらの波が重なる時が一番問題で予想外の大きさになる。ときどき岩場や堤防でつり人が波にさらわれるのはこのようなものかと思う。この傾向は沖に出ると一層大きくなる。波同士があたって噴水のごとくなるのをよく見かけた。
うねりは遠方からくる。大きなうねりは数百メートルにもなるのでそのいただきに上ると丘の上からはるかに草原を望む勘がある。風が強くなると比例して波が高くなるのは当然だが、近海のようにいつも同じ比例関係にはないように思う。例えば白波と風速の関係はいつもおなじではない。白波がすくなくても風が強いときもある。それぞれの白波の方向もしたがって同じではない。風のコントロールはセール〈帆〉の面積を小さくすることによって調節ができる。しかし波の大きさをコントロールすることはできない。そこでふねにあたる風の角度(主波の角度)を変えてコンとロールすることになる。いわばお尻を向けるのである。レースは勝つことに重点がおかれるが私の場合は安全に目的地につく事だから、あせることは何もない。しかしお尻の向け方と、走るスピードによっては波もかぶるし揺れもおおきい。真後ろではふねが揺れやすい。風を少し斜めに受けるようにして、かつふねが一定の角度傾いている方が安定する。しかし、前述のように波のほうが安定していないから、これは程度の問題である。ふねのスピードが遅いと波は容赦なく後ろから襲い掛かる。襲い掛かる寸前に逃げるスピードがよいがいつもそのようにはいかない。コックピットの排水口から逆流して波が入ってくるし、更に大きければまともに襲ってくる。折り重なって大きくなり、しかも方向の定まらないランダムウェーブは、あらぬ方向から“だーん”と大音響とともに襲ってくる。木造のせいもあるかもしれないが最初は流木が当たったと思ったものだ。風が10メートルをこえると頻度がましてくる。帆を縮めて風に流されるように進めば20−30mの風はやり過ごせるような感じだ。問題はランダムウェーブにふねごと持ち上げられて落とされる場合である。運悪く一度遭遇したが、横倒しになる程度ですんだから、これは幸運だったのかもしれない。場合によっては逆さになることもあると思う。このようなときは波がふねにあたるのではなくふねが波に当たるのである。小さく軽いふねは横転のチャンスが大きいだろう。
いずれにしても、どちらかといえば風よりも波の高さが問題で、波の高さが5メートル以上になると危険になる感じがする。
ヨットは風上にものぼっていけるが、のぼり角度はリーフしてセール面積が小さくなるほど、悪くなる。
いずれにしても風上へいくのは波でふねが叩かれるからそれほどスピードをだせない。 波がおおきくなるとのぼるのは無理になる。
(2007年1月25日掲載)
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6)航海を振り返って
今回の航海の目的は海を味わうこと、海の様相、孤独、自由、不自由を味わうことであった。それらについての感想を述べてみたい。
(2)自由と不自由
航海中、私には一人であるという自由があった。 少なくとも船内での決断と行動は私自身である。
96日間、7.8メートルのふねの中は自由な空間である。
少しだけ狭いかもしれないが、中国の皇帝が愛した三希堂と同じくらいの狭いキャビンのなかで、生活に必要なものはすべてある。衣、食、水、ベッド、トイレ、音楽、コミュニケーション、筆記、(pc)そして壮大なる思考空間である。さらに窓外の景色は刻々と変わり贅沢のきわみだ。 三希堂の美術品にも劣らない。
あえて言えば船内では皇帝が侍従を兼務していることぐらいかもしれない。 姫もいないけれど、この年になれば不自由の部類には入らない。毎日電話で女房とも話ができる。
船内の生活はまた人間の機能をわかりやすく実感できる場でもある。 食べて、寝て、放出する。 いま少し細かく言えば食物のエネルギーへの変換、動力への変換、さらにこれらエネルギーの観察や考察や表現への変換である。
しかし便利さとか、都合のよさなどの中間概念が入ってくると複雑になる。
トイレに三歩、シンクに二歩、電話に三歩、ベッドに三歩、そして、デッキに四歩の環境をどう思うか。
人によって便利さの概念の水準がことなり、ある人に便利でもあるひとには不便と感じられるからである。
200年前の人類を現在の日本の住居に住まわせたら、みな便利だというに違いない。
だから船内の生活は自由で便利ともいえるし、全てにおいて不自由で不便であったといえないこともない。いったいどっちなのだろう。
自由と不自由とは実は同じことかもしれない。 行動は一つだが、それはどちらとも思えるのである。
冷蔵庫がないから不自由だという。 必要なければ不自由ではない。第一、出し入れの必要がないし場所がいらない。
いままで人一倍横着な人間が一人で生活するとなると100%自分でやらなければならない。 全部が不自由といえないこともない。 しかしやがて不自由という概念は希薄になり、やるかやらないかということがより重要となる。やることについては自分の意志でやるので、不自由という感覚はなくなる。そこに義務感はない。手抜きをすれば、それが必要なことであれば、その代償は必ずわが身にかえってくるのである。
必要だが面倒だということがある。 不自由ということにも通ずる。 そういうときは面倒でないように工夫すればよい。トイレに行って座るのは面倒だ、おまけに便座が座る度にふねの揺れで動き壊れそうだ。それならということで考えたのが2リットルの水ペットボトルの上の方をナイフで切って簡易トイレにしたのはその例である。
いちいち食器を洗うのは面倒だからそのまま使うことにした。 混ざって味が変わるようなら、そのときはテイシュでふけばよい。 何回かやれば許容できる汚れの程度がわかってくる。 飯盒は毎日底をかじッて食べれば洗う必要はない。毎日同じお米だから昨日のかすが少し残っていても問題はない。おかずもセパレートして作る必要はない。お米と水をいれた飯盒をプロパンで5分炊いて5分休み3分炊いて5分休み、それから例えばインスタントのカレーであれば袋を破ってこれをいれ、後3分炊いて5分休んで出来上がりとなる。 プロパンも節約できる方法であるし第一食器は飯盒ひとつと食べるときの器一つの二つである。 途中で火を消す本当の理由は飯盒からの噴出するのを防ぐアイデアであったが、結果的に効率は良いし、おかずをいれてやれば全工程が一度でできる便利さがある。 飯盒からは直接食べてもいいが、ちょっと熱いのでおわんに入れるのだ。 だれもいないから、私がうまいと思えばそれでよい。じっさい非常にうまい。
これを不自由と言うか自由というか難しいかも知れないが、本人は自由と便利さを満喫している気分であった。
この場合、一つだけいえる秘訣は常におなかをすかしていることだ。そうすれば大概のものはうまいのだから。
ふねの中はいつも揺れるから立っているときはハンドレールにつかまり、座っているときはロープで体を縛り船体と固定する。 年をとればいつでもつかまっている方が楽だ。 いつもシートベルトを締めていたほうがよいのである。 飛行機も自動車も慣れればシートベルトは苦にならないどころか安定し気持ちよい。 ベッドのロープはふねのゆれで身体に食い入るので改良の余地があったのだが。
不便さがこのようにアイデアで便利さになることもある。このときは達成感があるくらいだ。 おかげで96日間、無傷で航海することができた。
水についても同じである、デッキからキャビンに帰ってきたときに塩切りのフィンガーボールで指先を洗う。この水は飲んでしまうか、食事の水にしても何ら問題はない。 うまいかまずいかは健康状態できまる。 不健康になって食べ物はまずいし、動くのがしんどくなると、すべてが不便になってくるだろう。 この悪循環に陥るのを防ぐことが何より大切である。 健康状態が悪くてデッキワークをサボったとしてセールが破れれば仕事は更に増え悪循環となる。
日常の家庭生活でも同じとおもう。 結局自由、不自由は主観の問題であり、自分がリーダーシップをとるかぎり自由と思うことができるであろう。
そんなわけで私の場合この航海で不自由と感じたことは殆どなかった。
(2007年1月7日掲載)
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(1)孤独とは何か
孤独と言う概念はいろいろである。こどもがいじめを受けて孤独のあまり自殺する記事がある。痛ましいことであるが、いじめられるということは友達に関心をもたれているからであり、決して人々に見捨てられたわけではない。誰からも見捨てられた状態の方がよほど孤独かもしれない。太平洋の真中にいて孤独とはなんだろうかと考えた。毎日電話で話はできる。メールもできる。私に対する家族の関心も友人の関心もいつもより高い、皆、私の無事を祈ってくれているようだ。実際私はこんな恵まれた状態はいままでにないのではないかと思った。数少ない晴れ渡ったひととき、一瞬、死んでもいいな、と思えるほど幸福を実感できた。
しかし、一方において孤独を限りなく味わうこともできたのである。嵐の時は荒天準備を冷静にしっかりとすれば、あとはただ、嵐の騒音のなかで、ただ祈ることだけである。極限状態の中で人間のできることは殆どない。冷静に準備をして、天命を待つしかないのである。事故が起これば、そのときは全力で対処するだろう。しかしそれまでの間、次に何が起こるだろうかという不安と緊張のなかでは祈るしかないのである。すがりつくものは何もない。泣きつくものは何もない。頼りにできるものは自分以外何もないのである。きっと宗教はこのように人間の力ではどうしようもない環境の中で生まれたに違いない、このような状態では人は純粋である。そして、孤独である。祈りの中に宗教は生まれたのであり、宗教があるから、祈りがあるというのではないだろう。
これは人間の制御できない恐怖のなかの孤独である。こどものいじめもこども自身は100%制御できないとおもってしまうのかもしれない。しかしこれは嫌われる孤独に属し救いは十分にある。
太平洋の真中ではお椀をさかさにしたような広い海の中で自分が頂点に存在する。たった一人の人間であり、その存在感はいかにも小さい。周囲は消え入るようなおおきさだ。特に空の深さは計り知れない。一匹のさかなと自分は一個の生命体として何ら変わらないではないか。一羽の鳥となんら変わらないではないか。そんな気持ちになってくる。そんなことを思っていると本当の孤独とは宇宙における疎外感のような気持ちではないかと思うようになってきた。それは命と関係がある。10歳の頃の死を見つめての恐怖感については前に述べた。そのとき来世は何でもいい、草でも虫でもいいからこの世に生をうけたいと思った。永遠にこの世の中が見られない、ということが耐えられなかったのである。その同じ気持ちが太平洋の真中でおよそ60年の年をへて再びよみがえってきた気がする。真の孤独とはこの宇宙に命と言う形で存在することのはかなさではなかろうかと思うのだ。限りある命そのものが孤独なのだ。日経の私の履歴書に書かれていた行天氏がこのような言葉で終わっているのを拝読した。“死ぬまで孤独を恐れない強さを持ちたい、そうすれば、世の中の真実が見え、人間の真実がみえる。”かれは私と同じように孤独をみつめているのではないかと思った。
孤独を私なりに分類すると人間社会に関するものとして、
*人から嫌われる孤独〈或いは孤立〉、
*人から無視される孤独〈或いは孤立〉、それから絶対的孤独として、
*恐怖における孤独、
*宇宙における命のはかなさを実感する孤独、
などに分けることができるかもしれない。孤独にたえるとはこれら全てに耐えることに違いない。そして登山の冒険家も、海洋冒険家も、阿ジャ梨をめざす修行僧も、見つめているものは同じではなかろうか。
(2006年12月27日掲載)
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5)ヨット遊び
サンフランシスコヨットクラブは1869年の創設である。日本では明治2年にあたる。ちなみに日本での最初のヨットクラブは1886年横浜ヨットクラブ、YYC、として在留外国人により設立された。
対岸のサンフランシスコシテイ−にあるセントフランシスヨットクラブも有名であるが、このクラブはサンフランシスコヨットクラブの姉妹クラブで1927年にわかれてできたものだ。グレン、ガビーご夫妻は両方のクラブに所属している。サンフランシスコヨットクラブはサンフランシスコで最も古い伝統に輝くクラブではあるが、鼻に掛けるようなところはない。ゴルフをしにサンフランシスコ郊外にある名門ぺブルビーチに行った時はその伝統を背景に従業員が何となくもったいぶっていたが、このヨットクラブにはそういうところが感じられない。一年に一度エンプロイーデイという催しがあり全従業員のためにクラブメンバーがふねを出してサービスするという粋なこともやっている。こんなところは陸と海の違いなのかもしれない。
日本のクラブではハーバーへの出入りをカードでコントロールしているところが多いが、ここでは誰でもが通用門から入ることができる。クラブには専属のジェネラルマネージャー、フアィナンシャルマネジャー、アカウントマネジャーがおり、勿論専任のシェフもいて上手い料理をたべさせてくれる。彼らは実にスムースにいろいろな催しものを消化していき見ていて気持ちが良い。1000人を越すメンバーに対し、ふねを置くところは限られているから、多くの人は待機せざるをえない。名門クラブだから、入りたい人はおおいのだろう。
それほど大きくはない港内であるが、クラブは小型ヨットの上げ下ろしスロープと保管のヤードももっておりOP(小学生の少年少女がおもに乗るふね)セーリングも活発のようだ。それより大きい若者のユースクラブもある。老若男女のヨット人口全体に気配りしていることは立派であるし羨ましい。
それぞれのグループがそれぞれに溶け込んでいるようで頼もしい。有名セーラーを多く出している所以であろう。このサンフランシスコヨットクラブの直ぐ横のテイブロンには今一つのヨットクラブがあり、対岸のセントフランシスとあわせた三つのクラブが囲んでつくるサンフランシスコ湾のレースはそれぞれの所属するメンバーがみな参加できるからレースの数は多い。何より羨ましいのはいつでも一定の風が吹くことである。ヨットにとってこのことは極めて重要である。日本でヨットの一流セーラーが育たないのも常に良い風の吹くところが少ないのも一因と思う。
金曜日の夕方6時半からチブロンのヨットクラブ主催のクルーザーレースがある。6つのクラスに分かれ、5分おきにスタートする。スタートは鉄砲だから、かなり大きな音だ。レースは約一時間半。夕暮れとともにフィニッシュする。それでも夏時間だから、それぞれの桟橋で手仕舞いする時間は十分にある。メンバーの家はクラブから車で数分の距離だ。金曜日のレースの後は三々五々ヨットクラブのある小さな街のレストランにくりだして楽しむ。私もこのレースにグレン、ガビーさんのあの美しい40フィートの持ちふね(Q)で参加させてもらい見事クラス一位に輝いた。グレンさんはさすがベテランである。
ベルベデーレに滞在する間にグレンさんのふねQに三度乗る機会があった。ルキミアカップもその一つである。これは白血病患者救済基金集めの重要なレースで、多くの人が参加して行われた。前夜に行われたパーテイーでは白血病から回復した人達も多く参加していた。私の隣に座ったご夫人もその一人で病気の前は運動もしなかったのに病気になってからは、トライアスロンにも出場するほどになったとのことである。人生は何がきっかけで変わるかわからない。なんと素晴らしいことか。このパーテイーでグレンさんがこの日のゲストスピーカーのポールケイヤードさん(世界的に有名なレーサー)を通して参加者に対し私のことを紹介してくれた。
レースのほうは30杯以上のクルーザーが集まり、エンジェル島をまわるものであったが、潮がきついためどのようなコースを引くかが勝負を左右する。なかなか白熱したレースであったがグレンさんはこの日も常にトップを走る腕前であった。表彰式にはニュウヨークからゲリイ、ジョブソンさんがこられ、ガビー、グレンご夫妻とゲリイさんと4人一緒に写真におさまった。ゲリイさんは1977年アメリカズカップ杯でタクテイシャンとしてテッドターナーと組んで優勝に導いた人である。ご自身も白血病にかかり、闘病生活ののち回復した英雄である。
ガビー、グレンさんは別の日に我々を愛艇Qでサンフランシスコベイの遊覧クルーズに誘ってくれた。ゴールデンゲート近くまで行き、サンフランシスコの市街を間じかに見ながらオークランドの橋の近くをとおり、エンジェル島を回ってくる大変のんびりした楽しいひとときであった。陽子さんと私がかわるがわる舵をにぎらせてもらったのは言うまでもない。
滞在中のもっとも大きなレースはビッグボートのレースである、50−70フィートのビッグボートが集まる大きなイベントで、セントフランシスヨットクラブ主催のレースである。グレンさんはこれにも出場したので私はセントフランシスヨットクラブの招待席で観戦することができた。目の前を大型艇が色とりどりのスピンセール(大きなバルーン状のセール)を張って通る様は圧巻であった。岸からは家族の応援が盛んである。“ハーイ、ハニー”なんとレース艇からのラブコールもあった。
海でのレースがないときは家の前のラグーンで小型ヨットのレースがあるので、グレンさんの週末はヨット三昧だ。グレンさんはまたサンフランシスコヨットクラブがアメリカズカップに出場したときの代表オーナーであり、またメキシコまでの最短時間セーリングの記録保持者でもある。海の男にふさわしい日々の生活である。
(2006年12月14日掲載)
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4)-(2)素晴らしきひとびと
朝の散歩は毎日道を変えてくれた。港町チブロン周遊、高級住宅街のラグーン周遊。みな1時間半の道のりである。散歩コースは海が見えるかラグーンの水が見えるか、いずれにしても水辺のほとりである。どの道でも、散歩する人、ジョギングするひと、ガビーさんに声をかけていく。女房の陽子さんは2週間で日本に帰ったのでそのあとはガビー、グレンご夫妻の家にホームステイすることになった。
このご夫妻のご自宅が実に素晴らしい。家は大きくはない。一階建てで庭先がラグーンに面している。数百メートルさきの対岸の丘に点在する家々が水面に影をおとす。ラグーンに接して白塗りの木造デッキがあり、デッキの片側の端からは手こぎのカヌーがスライドさせていつでも出せる状態にある。他方の端にはセーリングデインギ−、リト14がどうようにつながれている。週末のラグーンでは小型のふねのレースが展開される。週末の昼下がり、スタートの時間だけはきまっているが後はなにもきまっていない。この時間帯、都合のつくご夫人かレースを卒業したお年寄りがデッキに現れてコミッテイ−(レース管理)をやる。複数の人がくるときもあるが誰もこない時もある。誰もこない時は参加しているレーサーの一人が水の上で笛を吹いてレーススタート5分前を知らせる。ラグーンにはブイがあらかじめいくつか打ってあり風向によって何通りかのコースが作られているのでコミッテイ−はそのなかから一つのコースを選択するだけである。のどかなレース風景は一幅の絵のようだ。なんと恵まれた環境だろうか。
話をもとにもどそう。ガビー、グレンさんのお庭は白いデッキに続き英国風のごく自然なかたちで草花が植えられた庭があり、そのさきのギャラリーへと続く。白いデッキには大きな黒の幾何学的なデザインのオブジェがある。そしてお花畑にもひとつ、人が寄り添うような形の、さびで褐色となった大きな鉄製のオブジェである。それらすべてのものが、ラグーンとともに美しい景色を演出している。ガラス張りの内側のギャラリーに目を移そう。暖炉の横には、ロダンの彫塑がなにげなくおかれ、室内にはモダンアートの品々が美しいバランス保って配置されている。ギャラリー自体が美術作品のようだ。後にフィラデルフィアから私に会いにきてくれたヨット仲間のボブさんは建築家だが専門家の立場でこの住まいに感銘していた。
ガビー、グレン、ご夫妻はベルベデ−レの有名人であるが、私がガビーさんグレンさんに世話になっていると話すと、だれでもが彼らはいい人達だと口を揃える。皆が尊敬するカップルなのだ。誰にでも親切で決していやな顔はしない。だから多くの人が相談をもちかけるが真剣に一緒にかんがえ、悩み、喜ぶのである。いろいろなチャリテイー活動も率先して行う。一度ガビーさんの活動を拝見したことがある。ガビーさんグループのチャリテイー活動の一つとしていろいろな有名デザイナーに呼びかけ衣服や装飾品をつくり、販売して売上の何パーセントかをチャリテイーに供する活動である。ガビーさんはその責任者として、20冊ぐらいの販売伝票を文房具店でかったり、大きな鏡を何枚もDIYで買ったり、おまけに照明具をかりてきて、それらを全部ご自分の手で会場まで運んでいくのである(私は少し手伝ったが)。人の嫌がるようなことを、いやな顔一つ見せないで率先してやってしまうのだ。本番前日は事務仕事を朝の2時までやり、7時には会場に向かっている。私は家で留守番をしていたが、夕方には意気揚揚と帰ってくる。とても73歳のご夫人とは見えない。
この日はグレンさんの誘いで外食することになった。グレンさんはインターナショナルUCバークレイのボードの理事をされているが、いろいろの国からくる学生の生活や食事などについて細かいところまで気を配っているようである。またご夫妻は若い芸術家のそれとないパトロンをしているようだ。私もシテイ―の展覧会に同行したが若い芸術家と広くかかわりをもっているようである。ちなみにサンフランシスコは市の予算の1%を芸術作品の購入にあてているとのこと、芸術家に対するインフラも羨ましい。
別の機会ではご夫妻は白血病の慈善ヨットレースのパトロンになっており、私も同行したパーテイーでは病気から立ち治った病人の話にグレンさんは涙を流して聞いていた。グレンさんは情熱のひとでもあるのだ。一流の企業人であり、一流のヨットレーサーでありこの上なく謙虚な日々の生活態度に感銘を受けざるをえない。お二人はいつも毎日の出来事を話し合い確認し合いすべてを共有しておりその仲のむつまじさは衆目の一致するところである。お二人が若ければ熱くてそばには居られないに違いないが幸い私と同年輩だから、羨ましくも、勉強させてもらう先生だ。
瀬戸内の島々を巡って和歌山に向かう時、通り過ぎてゆく島じまを眺めなら気のついたことがある。人も島も同じだと。島はふねの移動と共に時々刻々と形すがたを変えていく。少し目をほかのものに移してまた島をみると、まったく違う島のようにみえる。島の木々、形、海岸線、いずれもが新鮮である。
人も実はいろいろの側面をもっている。時と場所、善い面も悪い面も持ち合わせているのが普通のひとだ。どこから見ても完璧だという人は少ない。だから人の善い面だけを見ようとすることはよいことかもしれないと思った。
ところが、このベルベデ−レでどこからみても理想的な素晴らしいカップルにであったのである。これは思いもかけないことであった。人生とは何か、を考えている人は多いだろう。私も其の一人かも知れない。しかし夫婦でそれぞれが深く考え、それを暗黙のうちに共有している人達は稀有のことである。ガビー、グレンご夫妻は、お互いが尊敬し合い、社会に貢献し周囲の人達の中での目立たぬ存在に幸せを感ずることのできる二人なのである。
もしかしたら、私はこの人達に会うために96日間をかけて太平洋を渡ってきたのかもしれない、と思った。
(2006年11月27日掲載)
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