2007/6 出版いたしました。
七十歳の太平洋航海◇帰国後報告◇(第2部)
◇ 祝!サンフランシスコ到着 2006年8月23日 ◇ 2006年5月、70歳を過ぎた企業人・村田和雄氏は小型ヨットで和歌山からサンフランシスコに向け処女航海に成功。 その村田氏による帰国後報告である。
サンフランシスコでの思い出 
今後何回かにわけて大陸接近時の衝突の危機やサンフランシスコでの1ヶ月にわたる楽しい一時につき記すことにしよう。(村田和雄:2006年9月30日)
7)海の様相
(3)海の生き物
無風の時、大海原が油を流したようになることがあった。このときはアホウドリたちも休んで海に浮かび黒い点となって存在する。船べりに寝そべって真下を見つめていると驚いたことに多くの小さな生き物がいるではないか。めだかのように小さい半透明のさかな、みみずのような生き物。うなぎの赤子のような一ミリぐらいの太さのいきものなどである。
もう少し大きなマリーゴールドのような浮遊物は、真中に二センチほどの物体があり外側に花びらのような形のものがひっついた、全体として花のようなものだ。ある期間たくさん浮いていた。5−8センチほどの帆掛けぶねの生物は学術名ベラ通称バイザウィンドセーラーズというものであることがわかったが、何万と浮いていた。一週間ぐらい続いただろうか。
一番不思議なものは幅10mから20m、長さが50から100mもある褐色の物体で最初は海草のようなものかと思ったが、ふねが其の中を容易に通過できるので、小さなオキアミのようなものかもしれない。不気味なくらい続き、一日中見ることができた。
ふねには、貝柱のようなものがくっつき、それが成長して数センチの棒状になった。進むのに抵抗が大きくなるので、かまのようなもので切ろうとするが、なかなかしっかりとついていて切るのに苦労した。このものはふねを陸に上げたあと乾燥して小さなつぶとなったが、はがそうとすると、塗料がはがれるくらいの強さがあった。しがみつく機構は研究にあたいする。これらの生物は船底塗装をしたところにはつかなかったが、ウオーターラインの直ぐ上あたり、波をかぶるところを狙ってついていた。
大きな魚はイルカが主であった。
何かに追われているのかカツオが垂直に飛び上がっているのを数回みた。
背びれだけ見えたものは何回かあったが、イルカかシャークかちょっとわからない。

(4)海のとり
かつおどりは東経160度ぐらいまで、それからはアホウドリとうみつばめが多く、これらの鳥は太平洋の真中では、どこでもみられた。しかし東経180度をすぎると急にすくなくなりサンフランシスコの近くでは急に多くなる。面白いことに陸に近いところではこれらの鳥も集団であるが、太平洋の真中では単独で行動する鳥が多い。そして同じ鳥でも太平洋の鳥はより逞しい。岸に近ければ餌は多いし岸の鳥からすればなんで遠い太平洋の真中まで好んでいくのか、と思っているかもしれない。元気な鳥が元気であるが故にだんだんと遠くへいってしまったのかもしれない。人間も同じようなものかもしれない。
(2007年3月6日掲載)

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7)海の様相
(2)海の色
海の色は海底の物質で変化するのはよく知られることであるが。太平洋では深さが何千メートルと深いから、海底の影響はない。日光の加減にもよるがおしなべて黒っぽい青である。ダークブルーというものか。しかしひかりの角度によってはもっと明るいマリーンブルーもみられる。海からの便りにも記載したが、崩れ波に射し込む光によって作られるエメラルドグリーンや氷河のなかに射し込むひかりのようなヘブンリーブルーは極めて新鮮な感じがする。うさぎが飛び交うと表現される波頭も方向が定まらないからいっそう自然で美しい。

(2007年2月14日掲載)

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7)海の様相
(1)風と波
海を味わうには世界で一番大きな北太平洋がふさわしいとおもった。実際、処女航海の私にはかなり厳しいものであったが、大西洋を2回シングルハンドで横断し、私と同時期に北太平洋を横断したイタリアのアレキサンドロ氏が、今回の航海は大西洋と比べて10倍厳しかったといっていたから厳しい方に入るのだろう。まず光があまりない。曇りか霧か、そして大概は寒い。サングラスを二つ用意していったが、使用したのは一度だけである。 私がとった航路は北緯35度の和歌山をでて30度までさがり、40度までのぼり、また36度までさがり、更に44度近くまであがり、38度のサンフランしスコに入ったのだから少し遠回りをしたようだ。

最短5000マイルほどのところを7000マイル強走ったことになり約1ヶ月長い道のりに相当する。このようになったのは、より安全なコースをとることや風の方向を考えてのことだが、気象のスピードは船速にくらべ5−10倍早く、温帯低気圧はその範囲が何千キロにもなるから結局逃げられないのが現実であった。エンジンを使えば少しは逃げられたかもしれないが私の流儀ではない。オートパイロットを多用すれば少しは近道をとれたかもしれないが、これも自然流に反する。

日本近海は日本列島に沿って低気圧の通路であるが、此れと平行して180度にいたる中間域も今年はよく低気圧が通ったように思う。低気圧は北に上れば発達する。北緯40度あたりで低気圧が突如発生することもある。低気圧になる前の気圧の谷も結構風を吹かす。これらは上空の冷たい気流により生じるもののようだ。北太平洋上は島がないからどこも気象に変化を与えるところはない。だから雲も平面で一様である。入道雲もない。目に見えるところの変化は雲だから、雲が日照時間に変化をあたえて気象の違いを演出する程度であろう。だから上空の気流の温度変化が重要なのは納得がいく。いずれの場合も風は低気圧や気圧の谷がくると強くなる。気圧傾度が風の強さを支配するからだ。低気圧の気圧が低ければ勿論風は強いが、高気圧が近くにあるかどうかも極めて重要である。高気圧は右回り、低気圧は左回りだから、その間は同じ方向の風となり強さをます。温帯性低気圧も980パスカル位になると台風並みだ。一度、風30m以上、波高12mと脅かされたことがあった。

横転はあったが、外を見ていないのでどれだけの波かはわからない。風に流されるように走っているから一番安全な状態だが、波は始終横からも後ろからもかぶっていた。キャビン内はハッチも目張りしたが、その隙間から押し寄せる海水が入る状態であった。横倒しにしたのは明らかにランダムウェーブだとおもう。はぐれ波だ。船全体を持ち上げて投げ下ろす感覚だろう。そのときのふねと波の角度、ふねの重量などが微妙に効くに違いない。
波は風によって作られるが、波は遠くのほうからも来る。安全な航海をするには波のほうが重要だ。特にどこからくるかわからない、ランダムウェーブは性質がわるい。
陸地から離れれば離れるほど波は自由度を増し、方向がまちまちになる。これは前にも述べたが遠方の風の影響であろう。それらの波が重なる時が一番問題で予想外の大きさになる。ときどき岩場や堤防でつり人が波にさらわれるのはこのようなものかと思う。この傾向は沖に出ると一層大きくなる。波同士があたって噴水のごとくなるのをよく見かけた。

うねりは遠方からくる。大きなうねりは数百メートルにもなるのでそのいただきに上ると丘の上からはるかに草原を望む勘がある。風が強くなると比例して波が高くなるのは当然だが、近海のようにいつも同じ比例関係にはないように思う。例えば白波と風速の関係はいつもおなじではない。白波がすくなくても風が強いときもある。それぞれの白波の方向もしたがって同じではない。風のコントロールはセール〈帆〉の面積を小さくすることによって調節ができる。しかし波の大きさをコントロールすることはできない。そこでふねにあたる風の角度(主波の角度)を変えてコンとロールすることになる。いわばお尻を向けるのである。レースは勝つことに重点がおかれるが私の場合は安全に目的地につく事だから、あせることは何もない。しかしお尻の向け方と、走るスピードによっては波もかぶるし揺れもおおきい。真後ろではふねが揺れやすい。風を少し斜めに受けるようにして、かつふねが一定の角度傾いている方が安定する。しかし、前述のように波のほうが安定していないから、これは程度の問題である。ふねのスピードが遅いと波は容赦なく後ろから襲い掛かる。襲い掛かる寸前に逃げるスピードがよいがいつもそのようにはいかない。コックピットの排水口から逆流して波が入ってくるし、更に大きければまともに襲ってくる。折り重なって大きくなり、しかも方向の定まらないランダムウェーブは、あらぬ方向から“だーん”と大音響とともに襲ってくる。木造のせいもあるかもしれないが最初は流木が当たったと思ったものだ。風が10メートルをこえると頻度がましてくる。帆を縮めて風に流されるように進めば20−30mの風はやり過ごせるような感じだ。問題はランダムウェーブにふねごと持ち上げられて落とされる場合である。運悪く一度遭遇したが、横倒しになる程度ですんだから、これは幸運だったのかもしれない。場合によっては逆さになることもあると思う。このようなときは波がふねにあたるのではなくふねが波に当たるのである。小さく軽いふねは横転のチャンスが大きいだろう。

いずれにしても、どちらかといえば風よりも波の高さが問題で、波の高さが5メートル以上になると危険になる感じがする。 ヨットは風上にものぼっていけるが、のぼり角度はリーフしてセール面積が小さくなるほど、悪くなる。 いずれにしても風上へいくのは波でふねが叩かれるからそれほどスピードをだせない。 波がおおきくなるとのぼるのは無理になる。

(2007年1月25日掲載)

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6)航海を振り返って
今回の航海の目的は海を味わうこと、海の様相、孤独、自由、不自由を味わうことであった。それらについての感想を述べてみたい。

(2)自由と不自由
航海中、私には一人であるという自由があった。 少なくとも船内での決断と行動は私自身である。
96日間、7.8メートルのふねの中は自由な空間である。
少しだけ狭いかもしれないが、中国の皇帝が愛した三希堂と同じくらいの狭いキャビンのなかで、生活に必要なものはすべてある。衣、食、水、ベッド、トイレ、音楽、コミュニケーション、筆記、(pc)そして壮大なる思考空間である。さらに窓外の景色は刻々と変わり贅沢のきわみだ。 三希堂の美術品にも劣らない。
あえて言えば船内では皇帝が侍従を兼務していることぐらいかもしれない。 姫もいないけれど、この年になれば不自由の部類には入らない。毎日電話で女房とも話ができる。

船内の生活はまた人間の機能をわかりやすく実感できる場でもある。 食べて、寝て、放出する。 いま少し細かく言えば食物のエネルギーへの変換、動力への変換、さらにこれらエネルギーの観察や考察や表現への変換である。
しかし便利さとか、都合のよさなどの中間概念が入ってくると複雑になる。 トイレに三歩、シンクに二歩、電話に三歩、ベッドに三歩、そして、デッキに四歩の環境をどう思うか。 人によって便利さの概念の水準がことなり、ある人に便利でもあるひとには不便と感じられるからである。
200年前の人類を現在の日本の住居に住まわせたら、みな便利だというに違いない。 だから船内の生活は自由で便利ともいえるし、全てにおいて不自由で不便であったといえないこともない。いったいどっちなのだろう。

自由と不自由とは実は同じことかもしれない。 行動は一つだが、それはどちらとも思えるのである。
冷蔵庫がないから不自由だという。 必要なければ不自由ではない。第一、出し入れの必要がないし場所がいらない。
いままで人一倍横着な人間が一人で生活するとなると100%自分でやらなければならない。 全部が不自由といえないこともない。 しかしやがて不自由という概念は希薄になり、やるかやらないかということがより重要となる。やることについては自分の意志でやるので、不自由という感覚はなくなる。そこに義務感はない。手抜きをすれば、それが必要なことであれば、その代償は必ずわが身にかえってくるのである。
必要だが面倒だということがある。 不自由ということにも通ずる。 そういうときは面倒でないように工夫すればよい。トイレに行って座るのは面倒だ、おまけに便座が座る度にふねの揺れで動き壊れそうだ。それならということで考えたのが2リットルの水ペットボトルの上の方をナイフで切って簡易トイレにしたのはその例である。
いちいち食器を洗うのは面倒だからそのまま使うことにした。 混ざって味が変わるようなら、そのときはテイシュでふけばよい。 何回かやれば許容できる汚れの程度がわかってくる。 飯盒は毎日底をかじッて食べれば洗う必要はない。毎日同じお米だから昨日のかすが少し残っていても問題はない。おかずもセパレートして作る必要はない。お米と水をいれた飯盒をプロパンで5分炊いて5分休み3分炊いて5分休み、それから例えばインスタントのカレーであれば袋を破ってこれをいれ、後3分炊いて5分休んで出来上がりとなる。 プロパンも節約できる方法であるし第一食器は飯盒ひとつと食べるときの器一つの二つである。 途中で火を消す本当の理由は飯盒からの噴出するのを防ぐアイデアであったが、結果的に効率は良いし、おかずをいれてやれば全工程が一度でできる便利さがある。 飯盒からは直接食べてもいいが、ちょっと熱いのでおわんに入れるのだ。 だれもいないから、私がうまいと思えばそれでよい。じっさい非常にうまい。 
これを不自由と言うか自由というか難しいかも知れないが、本人は自由と便利さを満喫している気分であった。
この場合、一つだけいえる秘訣は常におなかをすかしていることだ。そうすれば大概のものはうまいのだから。

ふねの中はいつも揺れるから立っているときはハンドレールにつかまり、座っているときはロープで体を縛り船体と固定する。 年をとればいつでもつかまっている方が楽だ。 いつもシートベルトを締めていたほうがよいのである。 飛行機も自動車も慣れればシートベルトは苦にならないどころか安定し気持ちよい。 ベッドのロープはふねのゆれで身体に食い入るので改良の余地があったのだが。 
不便さがこのようにアイデアで便利さになることもある。このときは達成感があるくらいだ。 おかげで96日間、無傷で航海することができた。
水についても同じである、デッキからキャビンに帰ってきたときに塩切りのフィンガーボールで指先を洗う。この水は飲んでしまうか、食事の水にしても何ら問題はない。 うまいかまずいかは健康状態できまる。 不健康になって食べ物はまずいし、動くのがしんどくなると、すべてが不便になってくるだろう。 この悪循環に陥るのを防ぐことが何より大切である。 健康状態が悪くてデッキワークをサボったとしてセールが破れれば仕事は更に増え悪循環となる。
日常の家庭生活でも同じとおもう。 結局自由、不自由は主観の問題であり、自分がリーダーシップをとるかぎり自由と思うことができるであろう。
そんなわけで私の場合この航海で不自由と感じたことは殆どなかった。
(2007年1月7日掲載)

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(1)孤独とは何か
孤独と言う概念はいろいろである。こどもがいじめを受けて孤独のあまり自殺する記事がある。痛ましいことであるが、いじめられるということは友達に関心をもたれているからであり、決して人々に見捨てられたわけではない。誰からも見捨てられた状態の方がよほど孤独かもしれない。太平洋の真中にいて孤独とはなんだろうかと考えた。毎日電話で話はできる。メールもできる。私に対する家族の関心も友人の関心もいつもより高い、皆、私の無事を祈ってくれているようだ。実際私はこんな恵まれた状態はいままでにないのではないかと思った。数少ない晴れ渡ったひととき、一瞬、死んでもいいな、と思えるほど幸福を実感できた。
しかし、一方において孤独を限りなく味わうこともできたのである。嵐の時は荒天準備を冷静にしっかりとすれば、あとはただ、嵐の騒音のなかで、ただ祈ることだけである。極限状態の中で人間のできることは殆どない。冷静に準備をして、天命を待つしかないのである。事故が起これば、そのときは全力で対処するだろう。しかしそれまでの間、次に何が起こるだろうかという不安と緊張のなかでは祈るしかないのである。すがりつくものは何もない。泣きつくものは何もない。頼りにできるものは自分以外何もないのである。きっと宗教はこのように人間の力ではどうしようもない環境の中で生まれたに違いない、このような状態では人は純粋である。そして、孤独である。祈りの中に宗教は生まれたのであり、宗教があるから、祈りがあるというのではないだろう。
これは人間の制御できない恐怖のなかの孤独である。こどものいじめもこども自身は100%制御できないとおもってしまうのかもしれない。しかしこれは嫌われる孤独に属し救いは十分にある。

太平洋の真中ではお椀をさかさにしたような広い海の中で自分が頂点に存在する。たった一人の人間であり、その存在感はいかにも小さい。周囲は消え入るようなおおきさだ。特に空の深さは計り知れない。一匹のさかなと自分は一個の生命体として何ら変わらないではないか。一羽の鳥となんら変わらないではないか。そんな気持ちになってくる。そんなことを思っていると本当の孤独とは宇宙における疎外感のような気持ちではないかと思うようになってきた。それは命と関係がある。10歳の頃の死を見つめての恐怖感については前に述べた。そのとき来世は何でもいい、草でも虫でもいいからこの世に生をうけたいと思った。永遠にこの世の中が見られない、ということが耐えられなかったのである。その同じ気持ちが太平洋の真中でおよそ60年の年をへて再びよみがえってきた気がする。真の孤独とはこの宇宙に命と言う形で存在することのはかなさではなかろうかと思うのだ。限りある命そのものが孤独なのだ。日経の私の履歴書に書かれていた行天氏がこのような言葉で終わっているのを拝読した。“死ぬまで孤独を恐れない強さを持ちたい、そうすれば、世の中の真実が見え、人間の真実がみえる。”かれは私と同じように孤独をみつめているのではないかと思った。

孤独を私なりに分類すると人間社会に関するものとして、
*人から嫌われる孤独〈或いは孤立〉、
*人から無視される孤独〈或いは孤立〉、それから絶対的孤独として、
*恐怖における孤独、
*宇宙における命のはかなさを実感する孤独、
などに分けることができるかもしれない。孤独にたえるとはこれら全てに耐えることに違いない。そして登山の冒険家も、海洋冒険家も、阿ジャ梨をめざす修行僧も、見つめているものは同じではなかろうか。
(2006年12月27日掲載)

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5)ヨット遊び
サンフランシスコヨットクラブは1869年の創設である。日本では明治2年にあたる。ちなみに日本での最初のヨットクラブは1886年横浜ヨットクラブ、YYC、として在留外国人により設立された。
対岸のサンフランシスコシテイ−にあるセントフランシスヨットクラブも有名であるが、このクラブはサンフランシスコヨットクラブの姉妹クラブで1927年にわかれてできたものだ。グレン、ガビーご夫妻は両方のクラブに所属している。サンフランシスコヨットクラブはサンフランシスコで最も古い伝統に輝くクラブではあるが、鼻に掛けるようなところはない。ゴルフをしにサンフランシスコ郊外にある名門ぺブルビーチに行った時はその伝統を背景に従業員が何となくもったいぶっていたが、このヨットクラブにはそういうところが感じられない。一年に一度エンプロイーデイという催しがあり全従業員のためにクラブメンバーがふねを出してサービスするという粋なこともやっている。こんなところは陸と海の違いなのかもしれない。
日本のクラブではハーバーへの出入りをカードでコントロールしているところが多いが、ここでは誰でもが通用門から入ることができる。クラブには専属のジェネラルマネージャー、フアィナンシャルマネジャー、アカウントマネジャーがおり、勿論専任のシェフもいて上手い料理をたべさせてくれる。彼らは実にスムースにいろいろな催しものを消化していき見ていて気持ちが良い。1000人を越すメンバーに対し、ふねを置くところは限られているから、多くの人は待機せざるをえない。名門クラブだから、入りたい人はおおいのだろう。

それほど大きくはない港内であるが、クラブは小型ヨットの上げ下ろしスロープと保管のヤードももっておりOP(小学生の少年少女がおもに乗るふね)セーリングも活発のようだ。それより大きい若者のユースクラブもある。老若男女のヨット人口全体に気配りしていることは立派であるし羨ましい。
それぞれのグループがそれぞれに溶け込んでいるようで頼もしい。有名セーラーを多く出している所以であろう。このサンフランシスコヨットクラブの直ぐ横のテイブロンには今一つのヨットクラブがあり、対岸のセントフランシスとあわせた三つのクラブが囲んでつくるサンフランシスコ湾のレースはそれぞれの所属するメンバーがみな参加できるからレースの数は多い。何より羨ましいのはいつでも一定の風が吹くことである。ヨットにとってこのことは極めて重要である。日本でヨットの一流セーラーが育たないのも常に良い風の吹くところが少ないのも一因と思う。
金曜日の夕方6時半からチブロンのヨットクラブ主催のクルーザーレースがある。6つのクラスに分かれ、5分おきにスタートする。スタートは鉄砲だから、かなり大きな音だ。レースは約一時間半。夕暮れとともにフィニッシュする。それでも夏時間だから、それぞれの桟橋で手仕舞いする時間は十分にある。メンバーの家はクラブから車で数分の距離だ。金曜日のレースの後は三々五々ヨットクラブのある小さな街のレストランにくりだして楽しむ。私もこのレースにグレン、ガビーさんのあの美しい40フィートの持ちふね(Q)で参加させてもらい見事クラス一位に輝いた。グレンさんはさすがベテランである。

ベルベデーレに滞在する間にグレンさんのふねQに三度乗る機会があった。ルキミアカップもその一つである。これは白血病患者救済基金集めの重要なレースで、多くの人が参加して行われた。前夜に行われたパーテイーでは白血病から回復した人達も多く参加していた。私の隣に座ったご夫人もその一人で病気の前は運動もしなかったのに病気になってからは、トライアスロンにも出場するほどになったとのことである。人生は何がきっかけで変わるかわからない。なんと素晴らしいことか。このパーテイーでグレンさんがこの日のゲストスピーカーのポールケイヤードさん(世界的に有名なレーサー)を通して参加者に対し私のことを紹介してくれた。
レースのほうは30杯以上のクルーザーが集まり、エンジェル島をまわるものであったが、潮がきついためどのようなコースを引くかが勝負を左右する。なかなか白熱したレースであったがグレンさんはこの日も常にトップを走る腕前であった。表彰式にはニュウヨークからゲリイ、ジョブソンさんがこられ、ガビー、グレンご夫妻とゲリイさんと4人一緒に写真におさまった。ゲリイさんは1977年アメリカズカップ杯でタクテイシャンとしてテッドターナーと組んで優勝に導いた人である。ご自身も白血病にかかり、闘病生活ののち回復した英雄である。
ガビー、グレンさんは別の日に我々を愛艇Qでサンフランシスコベイの遊覧クルーズに誘ってくれた。ゴールデンゲート近くまで行き、サンフランシスコの市街を間じかに見ながらオークランドの橋の近くをとおり、エンジェル島を回ってくる大変のんびりした楽しいひとときであった。陽子さんと私がかわるがわる舵をにぎらせてもらったのは言うまでもない。

滞在中のもっとも大きなレースはビッグボートのレースである、50−70フィートのビッグボートが集まる大きなイベントで、セントフランシスヨットクラブ主催のレースである。グレンさんはこれにも出場したので私はセントフランシスヨットクラブの招待席で観戦することができた。目の前を大型艇が色とりどりのスピンセール(大きなバルーン状のセール)を張って通る様は圧巻であった。岸からは家族の応援が盛んである。“ハーイ、ハニー”なんとレース艇からのラブコールもあった。
海でのレースがないときは家の前のラグーンで小型ヨットのレースがあるので、グレンさんの週末はヨット三昧だ。グレンさんはまたサンフランシスコヨットクラブがアメリカズカップに出場したときの代表オーナーであり、またメキシコまでの最短時間セーリングの記録保持者でもある。海の男にふさわしい日々の生活である。
(2006年12月14日掲載)

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4)-(2)素晴らしきひとびと
朝の散歩は毎日道を変えてくれた。港町チブロン周遊、高級住宅街のラグーン周遊。みな1時間半の道のりである。散歩コースは海が見えるかラグーンの水が見えるか、いずれにしても水辺のほとりである。どの道でも、散歩する人、ジョギングするひと、ガビーさんに声をかけていく。女房の陽子さんは2週間で日本に帰ったのでそのあとはガビー、グレンご夫妻の家にホームステイすることになった。
このご夫妻のご自宅が実に素晴らしい。家は大きくはない。一階建てで庭先がラグーンに面している。数百メートルさきの対岸の丘に点在する家々が水面に影をおとす。ラグーンに接して白塗りの木造デッキがあり、デッキの片側の端からは手こぎのカヌーがスライドさせていつでも出せる状態にある。他方の端にはセーリングデインギ−、リト14がどうようにつながれている。週末のラグーンでは小型のふねのレースが展開される。週末の昼下がり、スタートの時間だけはきまっているが後はなにもきまっていない。この時間帯、都合のつくご夫人かレースを卒業したお年寄りがデッキに現れてコミッテイ−(レース管理)をやる。複数の人がくるときもあるが誰もこない時もある。誰もこない時は参加しているレーサーの一人が水の上で笛を吹いてレーススタート5分前を知らせる。ラグーンにはブイがあらかじめいくつか打ってあり風向によって何通りかのコースが作られているのでコミッテイ−はそのなかから一つのコースを選択するだけである。のどかなレース風景は一幅の絵のようだ。なんと恵まれた環境だろうか。

話をもとにもどそう。ガビー、グレンさんのお庭は白いデッキに続き英国風のごく自然なかたちで草花が植えられた庭があり、そのさきのギャラリーへと続く。白いデッキには大きな黒の幾何学的なデザインのオブジェがある。そしてお花畑にもひとつ、人が寄り添うような形の、さびで褐色となった大きな鉄製のオブジェである。それらすべてのものが、ラグーンとともに美しい景色を演出している。ガラス張りの内側のギャラリーに目を移そう。暖炉の横には、ロダンの彫塑がなにげなくおかれ、室内にはモダンアートの品々が美しいバランス保って配置されている。ギャラリー自体が美術作品のようだ。後にフィラデルフィアから私に会いにきてくれたヨット仲間のボブさんは建築家だが専門家の立場でこの住まいに感銘していた。

ガビー、グレン、ご夫妻はベルベデ−レの有名人であるが、私がガビーさんグレンさんに世話になっていると話すと、だれでもが彼らはいい人達だと口を揃える。皆が尊敬するカップルなのだ。誰にでも親切で決していやな顔はしない。だから多くの人が相談をもちかけるが真剣に一緒にかんがえ、悩み、喜ぶのである。いろいろなチャリテイー活動も率先して行う。一度ガビーさんの活動を拝見したことがある。ガビーさんグループのチャリテイー活動の一つとしていろいろな有名デザイナーに呼びかけ衣服や装飾品をつくり、販売して売上の何パーセントかをチャリテイーに供する活動である。ガビーさんはその責任者として、20冊ぐらいの販売伝票を文房具店でかったり、大きな鏡を何枚もDIYで買ったり、おまけに照明具をかりてきて、それらを全部ご自分の手で会場まで運んでいくのである(私は少し手伝ったが)。人の嫌がるようなことを、いやな顔一つ見せないで率先してやってしまうのだ。本番前日は事務仕事を朝の2時までやり、7時には会場に向かっている。私は家で留守番をしていたが、夕方には意気揚揚と帰ってくる。とても73歳のご夫人とは見えない。
この日はグレンさんの誘いで外食することになった。グレンさんはインターナショナルUCバークレイのボードの理事をされているが、いろいろの国からくる学生の生活や食事などについて細かいところまで気を配っているようである。またご夫妻は若い芸術家のそれとないパトロンをしているようだ。私もシテイ―の展覧会に同行したが若い芸術家と広くかかわりをもっているようである。ちなみにサンフランシスコは市の予算の1%を芸術作品の購入にあてているとのこと、芸術家に対するインフラも羨ましい。
別の機会ではご夫妻は白血病の慈善ヨットレースのパトロンになっており、私も同行したパーテイーでは病気から立ち治った病人の話にグレンさんは涙を流して聞いていた。グレンさんは情熱のひとでもあるのだ。一流の企業人であり、一流のヨットレーサーでありこの上なく謙虚な日々の生活態度に感銘を受けざるをえない。お二人はいつも毎日の出来事を話し合い確認し合いすべてを共有しておりその仲のむつまじさは衆目の一致するところである。お二人が若ければ熱くてそばには居られないに違いないが幸い私と同年輩だから、羨ましくも、勉強させてもらう先生だ。

瀬戸内の島々を巡って和歌山に向かう時、通り過ぎてゆく島じまを眺めなら気のついたことがある。人も島も同じだと。島はふねの移動と共に時々刻々と形すがたを変えていく。少し目をほかのものに移してまた島をみると、まったく違う島のようにみえる。島の木々、形、海岸線、いずれもが新鮮である。
人も実はいろいろの側面をもっている。時と場所、善い面も悪い面も持ち合わせているのが普通のひとだ。どこから見ても完璧だという人は少ない。だから人の善い面だけを見ようとすることはよいことかもしれないと思った。
ところが、このベルベデ−レでどこからみても理想的な素晴らしいカップルにであったのである。これは思いもかけないことであった。人生とは何か、を考えている人は多いだろう。私も其の一人かも知れない。しかし夫婦でそれぞれが深く考え、それを暗黙のうちに共有している人達は稀有のことである。ガビー、グレンご夫妻は、お互いが尊敬し合い、社会に貢献し周囲の人達の中での目立たぬ存在に幸せを感ずることのできる二人なのである。

もしかしたら、私はこの人達に会うために96日間をかけて太平洋を渡ってきたのかもしれない、と思った。
(2006年11月27日掲載)

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4)-(1)素晴らしきひとびと
サンフランシスコヨットクラブへは歩いてほんの5分程度のところにあるアコモデーションをガビーさんは用意してくれていた。ガビー、グレンご夫妻の友人である若いスコットご夫妻が我々のために無償で貸してくださったのである。女房にいわせるとトイレが三つもある大きなところで、眼下には隣接するヨットハーバーを見おろし、はるか前方にはオークランドブリッジを眺めるすばらしい部屋である。オーナーは自宅を近くにもっておりここは別宅だ。
第一夜はなんとも不思議な気持ちであった。96日間体をしばって寝ていたのであるから、このふくよかなベッドは天国のごとき気持ち良さであるが、やはりぐっすりと眠るわけにはいかずうつらうつらという奇妙な感じであった。96日間の緊張の疲れは本人が気付かない形で溜まっているに違いない。こんなすばらしい環境で過ごせばきっと早く回復するに違いない。
パーテーの次ぎの日はブルースさんを案内して咲良丸の桟橋に行きあれこれと説明する。彼は非常なアイデアマンだから、帆を使わないで風を利用して走る方法を一生懸命考えていた。この人の集中力はすごいから何かそのうちに生まれるかもしれない。
その後、仮の住まいの我が豪邸に案内し団欒、少しビジネスの話もしてブルースさんは帰国の途についた。
翌日からベルベデ−レの生活がはじまる。グレンさんはご自分の経営するシテイーの会社にフェリーでご出勤。いつも秋晴れのベルベデ−レから、霧のサンフランシスコに向かうのである。ゴールデンゲートを右に見て、サンフランシスコベイを渡る船旅はわずか15分。朝の潮風を一杯に吸っての出勤は羨ましい。海の男グレンさんにふさわしい。
奥さんのガビーさんは活発だ、こまやかに、我々の世話をしてくれる。その一つが朝の散歩である。私はまだ、大地にはなれていないので散歩は実に楽しい。 身長は私より少し低いのに歩くのは速い。ハーバーを見下すクラブの横のビーチロードを登っていき半島をまわるようにしての約1時間半の道のりである。
ベルベデ−レの天候はいつも晴天である。対岸のサンフランシスコが霧でもこちらは晴天なのだ。 こんなに近いところでこれほどまでに気象が変わるのかとおもうほどである。この素晴らしい天候の理由はしばらく生活して次第に明らかになってきた。
サンフランシスコへいったことのある人は大概フィツシャマンズウオ−フとかゴールデンブリッジに行く。そのとき霧に合うことが多いに違いない。霧はそのゴールデンブリッジの方からくるのである。実は私の北太平洋横断航海ではその80%が霧か曇りの日々だったのである。霧は絨毯を広げるような感じで海の表面を這いながらあっという間にやってくるのである。サンフランシスコはその太平洋の東に位置する。北半球では気象は西から東に移るので洋上で発生した霧はサンフランシスコに向かってながれてくるのである。そしてその霧はゴールデンゲートの海峡をそのまま通過してシテイ−にあたるようだ。しかもこの近くの沖合の風は北または北西である。通り道の先にシスコがある感じである。
サンフランシスコ側からゴールデンゲートを渡ると橋の向こうは絶壁の先にサウスリトという丘陵景勝地があることは先に述べた。ベルベデ−レは太平洋からみると、この丘を越えてさらにリチャード湾を越えて位置している。このため霧はこの丘を越えながら温められて消えてしまうのである。だからサウスリトの丘の途中まで霧がかかるときは実に美しい。ときどきはベルベデ−レにも霧がくるが大概は昼頃には晴れ上がる。
散歩のあとはふねの整理に向かった。散歩と整理はしばらく日課となった。
(2006年11月12日掲載)

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3) 歓迎の波
 いよいよゴールデンゲートへの最後の2マイルほどの航程である。
 クリーム色の40フィートの美しいふねに先導されて山肌の見える高い丘つたいに海峡の北側を進み、見上げるようなゴールデンゲートの橋の下をくぐる。  ゲートに続く左側の丘はサウスリトという地域で、その昔仕事で訪れた時に招待していただいたことがあり、とても静かな感じの良いレストランがなつかしい。上の方がうっすらと霧にもやっているが点在する白く美しい住宅の一つ一つは緑に囲まれて浮き出ている。 右側にエンジェル島を眺めながら進むと目的地ベルベデ−レは目と鼻の先だ。ゲートの方に突き出た丘の下に君臨するサンフランヨットクラブのハーバー内に静にふねを運ぶ。ベルベデ−レは知るひとぞ知るアメリカのビューテフルスポットだ。その岡の斜面は超高級住宅地が緑の中に散在し、1869年創立のサンフランシスコ最古のこのクラブはこの麓の一角に美しい佇まいをみせている。 ハーバーの入り口でスタークラス2杯〈艘〉と出会う。スタークラスは何十年もオリンピッククラスに名を連ねる名艇だ。アメリカについたという感慨を秘めながらゆっくりとハーバーのなかを進み桟橋に向かう。桟橋には思いのほか大勢の人達がおり、中には報道関係者と思える人達の顔もみえる。あらかじめカメラを出しておいたので逆に、桟橋で出迎えてくれた人たちの写真をとったら皆驚いて笑っている。デッドスローで桟橋に近づいたとき、最初にもやいをとってくれたのは後でわかったことだがバイスコモドアのスミスさんである。女房の陽子さんは出迎えのふねにはのらずこの桟橋で迎えてくれた。
 まだふねから降りないうちにパチパチと写真をとられ記者が質問してきた。“今の心境は”、 “ベリーベリーハッピー”、 “何日間かかったか”、“96日間”、 “どこかでやめたくならなかったか”、“やめたくてもやめるところがないよ”、 “一番の難所は”、 “昨日の陸にぶっかりそうになったことだ”等、延えんと続く。
 やっと一区切りついたところでふねからの第一歩をしるす。ゆっくりと、自信はあったがゆっくりと降りたった。船の中での体操やダンスが効いたのであろう、あまりふらつかない。早速バイスコモドアからサンフランシスコヨットクラブの帽子をいただいた。続いて私が顧問をしていたデルタ電子株式会社(売上高4000億強の台湾の会社)の会長さんからの花束をいただく、どうしても本人は今日こられず明日見える予定だ。それからの写真撮影はバイスコモドアと二人で、さらにコモドアがつれてこられた2歳ぐらいの少女を誘いカメラに向かう。この写真もテレビにでたらしい。 コモドアは50代後半と見えたので“お孫さんですか?”といったところ “いや、娘ですよ” “うらやましいですね” と楽しい会話にみな笑っている。 やっと女房の番がきて二人でカメラマンにこたえる。さらに台湾からの記者や地元の記者からの要望でふねのキャビンのなかに入り狭い室内でのインタビューが続く。若い女性の記者はテーブルの隅にお尻をはさまれしばし動きが取れない。体の大きい現地の男性記者はデッキからキャビンに入るのが大仕事だ。インタビューからやっと開放され、出迎えてくれた人びとを眺めているうちにインヂアナアナポリスからわざわざ飛行機できてくれたビルさんを見つけ出す。彼は電池業界の名物男でGMの電池部門の技術を代表しその若き時代にワシントンでの国際会議で私とともに世界をリードする開発成果を発表した仲である。彼は出迎えのガビー、グレンご夫妻のふねには乗らずゴールデンブリッジの上から迎えてくれたのだ。あれこれ話しながらクラブのデッキに行くとそこには遠洋航海経験のつわもの達がビールやワインをのみながら待ち受けていた。ヨットの雑誌記者も仲間に入リヨット談義に花が咲く。グレンさんからはワインやシャンペーンをさしいれていただいた。
 “今日からは私もお酒の解禁だ“、と思った途端、ふねにある酒のことを思い出した。イタリアにいた息子からもらった唯一のアルコールである。極上のブランデーとこれまた手をつけなかった、サラミをふねから探しだし仲間に加わる。 航海中は一滴の酒も飲んでいない。体を常に最上の状態に保つことを信条としたためであり、なにか起こったときに後悔しないためであった。ふらふらしながらも気持ちよく酒を飲みだしたところでまた仕事を思いついた。関係者への無事到着の電話である。さっそくふねにもどりサテライト電話で一通り関係者に電話をいれたのだが、一部の人の反応はどうも新鮮味がない。 後で分かったことだが一報はすでに皆に伝わっていたようである。私が第一歩を桟橋にしるしたとき、ヤマハの飯田さんが携帯で娘を繋いでくれたのである。娘は私の航海でのコミュニケーションセンターを引き受けていたのでいち早く皆に無事到着の報をメールで伝えたらしい。ちょっと新鮮味が欠けてしまったが皆無事を喜んでくれた。
 このような歓迎の様子は地元のテレビでもニュースとしてながれたようで、2日後に中華料理店にはいったら“昨日の夜のニュースでおまえを見たぞ、一緒に写真をとらせてくれ”と頼まれた。おまけにサインまでせがまれて、ちょっとした気分を味わった。 翌日は午前中ふねの整理。女房とデルタの人達や記者の方々にも手伝っていただき、まずはごみの積み出しを行った。航海中、食料の包装用プラスチックをふくめシートの切れ端、テープなど海で消化できないものすべてを袋にいれて保管してきたので、大きなごみ袋にぎゅうぎゅうにつめて5個もあった。これを船首の部屋に詰めておいたのである。実は食料もあと一ヶ月分ほど余っていたのだが捨てるには忍びなくとりあえず保管することにした。食料は女房が準備してくれたのであるが、日頃の私の消費量から計算しており、20−30%ほど多めになってしまったようである。航海中は必ず3食たべていたが、常に空腹を保つよう心がけていたのでこのようになったとおもう。節約家の女房はしきりに残念がっていたが、健康にはかえられない。
 この日はまたデルタ電子のブルース会長さんがはるばる台湾から飛行機でこの日のために来てくれた。夕方から会長さん主催のパーテイーが始まり、会長さんの祝辞やプレゼントをいただいたあと、ヤマハ〈発〉の長谷川会長さんからの花束やメッセージをいただいた。長谷川さんは女房も知っているのでメッセージには女房に感謝しろと言う内容も含まれていた。インヂアナポリスからのバッテリービルさんからはわざわざ私の航路を私の写真とともに素早くアレンジして額に入れたものをプレゼントしてくれた。みな素晴らしいプレゼントである。またこのパーティーにはイタリア人で丁度私と同じ時期に太平洋を19フィートのカタマランタイプのオープンボート〈キャビンがない〉で横断して世界記録を樹立した35歳のアレサンドロさんも加わり花を添えてくれた。幸せとはこんな時のことかな、と思った。
 ところで、到着時の会話の中に食べ物の質問が多いことを思い出して私はこのパーテイーのために残った食料の1週間分と特別保存のパンをパーティー会場に持ち込んでいた。これには皆も喜んでくれてこれを用意してくれた女房にもいろいろと質問が飛んでいた。なかには今後の参考にするといって一週間分を持ち帰った人もいる。特にコモ社のパネトーネは評判がよかった。このパンは酸性雰囲気に強い特別のイースト菌を使用して作った純日本国産のイタリアブランドである。
(2006年10月30日掲載)

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2) 陸地接近の危機
 ゴールデンブリッジが顔を出しはじめるポイントボニ−タでの劇的な拍手での出迎えの後、二つのふねはブリッジに向けて並走を開始した。 そして私はその美しい40フィートのふねのなかの顔をたしかめにかかった。ヤマハの飯田さんはすぐわかったがそれ以外の人は見知らぬ顔である。カメラマンがしきりにシャッターをきっているが彼は台湾からのカメラマンに違いない。構え方がプロフェッショナルだ。ガビーさんはどこにいるのだろう。グレンさんはどこにいるのだろう。写真で拝見しているだけで、いまはみな同じ服装だからわかりにくい。 “What a beautiful boat” これが 私の第一声である。実に美しいふねだ。次ぎの言葉は “Where is Glenn San” これに答えて舵をにぎっていたスキッパーが手をあげる。どうもこのふねはグレンさんのものらしい。”Where is Gaby San”
 前の方で先ほどから目をこらしてこちらを見つめていたご夫人が手をあげた。Gabyさんとグレンさんはご夫婦である。
 ふねがアメリカ大陸に近づくにつれて毎日のように衛星電話やメールのやりとりをしたかたがたである。そして一昨日はとうとう彼らがコーストガードに捜索を依頼するほどに私はご心配をかけてしまったのである。グレンさんはご自分のサンフランシスコのシティ−にある会社にもいかず待機していただいたのに私がしかるべく連絡をとらなかったために、騒ぎが大きくなってしまったのだ。
 事の顛末を説明するために少しサンフランシスコ近くの気象について説明しよう。大雑把に言うとハワイとサンフランシスコの間には高気圧がいつも存在しサンフランシスコの陸地には小さな低圧部が存在しやすいためにその間の風は北風となり、かなりの強風になることが多い。北太平洋を横断する最後の強風域である。いつも北風であり強さがかなり安定しているから、ふねの方向とスピードはほぼ一定で一日の行程は計算しやすい。そのため私は約1週間前から到着日を予想し関係者に連絡をとっていた。毎日GPSで位置取りをして、残りの航程を計算しある程度のスケジュールの調整を行っていたのである。予定より早ければ少し縮帆を大きくして調節ができる。そこで少し計算よりも航程を早めに推移するようにしていた。サンフランシスコへのアプローチ角度は120度である。これは強風下ではヨットは風上に上るとき波をのりこえることになりふねへの負荷が大きくなるためである。風を背後から受ければスムーズにヨットはすすむ。このため楽にサンフランシスコにアプローチできるように風の入射角を約120度になるように十分北の緯度にふねをもっていき強風域のアプローチを開始したわけである。開始後は、風は強く波も高いがすべては順調にいくように思われた。ところがそこに思わぬ落とし穴があったのである。

 サンフランシスコへのアプローチの最初の目標はサンフランシスコのほぼ北西に位置するレイエ岬である。サンフランシスコへは多くの船の出入があるのでその出入りを円滑にするために海に見えない航路が設けられている。この北側の入り口がレイエス岬で大型船はここからは決められた航路を20数マイル走ってゴールデンゲートに入るのである。一日前の私のポジションはこの岬のさらに北西に位置しそこから斜め追い風を受けてレイエス岬にむかっていくことにしていた。ところが風は近づくにつれ一層強くなり、スピード調節が難しくなってきた。明日はレイエス岬に近づくというときセールを全部降ろしても5ノット(毎秒2,5m)近いスピードがでてしまうではないか。このままでは予定の一日前にはついてしまう。レイエ岬から更に20数マイル先のゴールデンゲートの潮の時間も考えなければならない。計算ではレイエ岬には朝8時までにつく必要がでてくる。 このぶんでは翌日朝5時ごろには岬から10−20マイルのところに着きそうなので一気に岬を通過してゴールデンゲートに向かうことにした。 その旨ガビーさん経由で関係者に連絡してもらう。そしてレイエス岬に近づく8時ごろまでに連絡をとることにしていたのである。このようにして新しい局面での準備を終えたので早めに寝床に入り明日の早朝に備えることにしたのであるが、この時点では勿論落とし穴に気付いていない。 そしてこの最後の局面でも使い慣れたウィンドベーンを使ってしまったのだ。私の航海の目的は海を味合うことにあったから、できるだけ自然に、風だけを利用してエンジンも使わず、電気によるオートパイロットとよばれる航海器具も使わずにウィンドパイロットと呼ばれる風の力で操船する方法を終始とってきた。この最後の航程もセールは全部降ろしたが、ウィンベーンパイロットで120度方向を維持して進むようにセットしていたのだった。
 目標はレイエス岬の北側10マイルに置いたがそれには理由がある。直接岬を狙わなかった理由は本船航路を避けるためである。私のふねはレーダーはつけていないが、レーダーワッチマンをつけて他のふねからのレーダーをキャッチする機器をつけていた。 ふねが近づくとピー、ピー、と警報をならすものだ。警報がしょっちゅうなるとおちおち床につくことができない。そこで本船航路からはずれた航路を引いたのである。
 これ自身は問題ないが、この場面でなおウィンドパイロットを使ったことに問題があった。明日レイエスに近づいたところで初めてオートパイロットに変えればいいと思っていたのである。 そしてセットだけは今日中にしておこうと昨日のうちにセットしておいた。でも事件はオートパイロットを使う前におきてしまったのである。私はウィンドパイロットを120度にセットして、まずは休養第一と床にはいり、午前2時か3時に一度位置を確認すればよい、明日はいよいよ陸地に近づくのだ、と緊張の中にも胸躍る気持ちで床に横たわりました。うつらうつらしながら休んでいたのですが、12時頃何となく位置を確認する気になりGPSのポジションを見たのです。レイエス岬までは東に22マイル南に29マイルの位置と計算されました。予定よりもスピードは速くなっていることがわかりましたがそれでもまだ余裕があります、後2時間ぐらいは床に横たわろうとしたのです。私の健康第一主義を継続しようとしたのです。ところがどこかで“まて”と言う指示が体に伝わってきたのです。次ぎの瞬間私の頭脳が反応し“待てよ、確かレイエスの少し上のほうは西にせり出していたはずだ。”と気付いたのです。即座に地図の上で確認すべくPC上の海図の上で位置を確認するとなんと陸地ではありませんか。このときばかりは、飛び上がるようにしてデッキにでました。目に入ってきたのは光が一面にならんでいる町の夜景ではありませんか。反射的に舵をにぎり反対方向にふねを向けるとともにエンジンをかけて暗やみのなかをとにかく進みました。後に海図上で詳しくしらべたところ岸から4マイルまで接近していたのです。この距離は1時間以内に衝突する距離ですからもしそのまま床に入っていたら、間違いなく衝突していたでしょう。私の意識はまだ余裕があるから床に入ろうとしたのですが だれかが私に注意し、私を救ってくれたのです。多くの人々の祈りが私を救ってくれたようにおもえてなりません。
 それからは反対方向に向かい舵を固定し1時間ほど走り海図上で安全を確認してはじめてオートパイロットに切り替えレイエスに向かいました。それからはレイエスに8時には着くように努力しましたが、風も次第に弱まり逆潮もあって9時頃になってしまいました。レイエスの灯台は約90メートルの高さにあり23マイル先から見えるとのことでしたが、結局1マイルになってやっと見えるほどに霧がかかっていました。この間デッキでワッチをしておりましたのでかなり疲れがたまりグレンさんへの連絡をしなかったために心配をかけてしまったのでした。ちょうどレイエスのところでゴールデンブリッジに今日中に入るのをあきらめてぐったりしているところふと気がつくとコースとガードが背後に居りました。その時は手を振った程度でそのまま去っていきました。がしばらくするとまたもどってきました。 私は不審に思われてもいけませんので、本当はゴールデンブリッジに入るところで展開しようとしていた日の丸の旗を開きました。コーストガードは近くまでやってきました。そして、グレンさんが心配しているので電話を掛けるようにとのアドバイスをうけました。時計をみるともう10時近いではありませんか。すぐにキャビンに入りサタライト電話をして事情を説明し謝りましたが、ガビーさんもグレンさんも無事を喜んでくれました。
(2006年10月9日掲載)

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1) 感激のゴールデンブリッジ…2006年8月23日
昨日はコーストガードにも心配をかけてしまったが、今日は波も穏やか風も順風である。サンフランシスコに至る最初の目的地であるレイエ岬に20数マイルもあるのに真夜中に風が変わり陸地に4マイルと接近してしまった昨夜の事件。それからはエンジンを初めて使いだした。それに伴い電気で動くオートパイロットを使うことにしたので、今日の行程は順調である。海を味わうのが目的であったのですべてを自然の風に頼り操舵もまた風に頼って全行程をやってきた。そのことが事件につながるのだが、このことは次回に詳しく述べることとして、我が咲良丸は今やゴールデンブリッジの入り口であるポイントボニ−タにたどり着いた。時刻は11時45分。ポイントボニ−タは、スペイン語で美しい岬とよばれるだけあって、北からのアプローチでは、この岬からゴールデンブリッジが少しずつ顔を出してくる。半分ほど霧がかかり橋はかすみのなかから浮かびでてくるようである。両端の高いがけからのびた赤い橋は時時刻々と姿をかえて周囲の山肌と調和する。“12時30分、ポイントボニ−タで会いましょう”今朝がたグレンさんとの約束の時間には少し早い。この美しい景色を味わうために少し引き返し、また岬から少しずつのぞく遠くのゴールデンブリッジをたのしむ。出会いの時間はこの海峡の潮の時間もみて決めたものである。引き潮で3ノット以上もあるとこの船ではつらい。23日はスラック(潮がとまるとき)08:28、上潮マックス11:32、 3.6ノット次ぎのスラックは14:37である。この間に入り込めばよい。
思えば、北のレイエ岬からここまでの灯台やブイは6箇所あるがすべての光の種類と信号間隔を暗記していたし、一つの信号から次ぎの信号の方角も暗記していたが、昼間となったこととオートパイロットをつかったので私の役目は船を見張るだけであった。実は景色がよいのと漁船や鳥や漂流物が興味深いのでそんな必要はなかったのだが、それでも5分ごとに目覚ましを掛けてうつらうつらするのを防いできた。鳥の種類は実に多い太平洋の真中とは比較にならない。鳥の楽園といってもいいだろう。ペリカンもアホウドリもいる。海の幸が豊富な証拠である。海流がぶっかるせいだろうか。ここでは鳥達が群れをなしている。飛ぶ時も群れで飛ぶ。太平洋では鳥は群れを作らない、単独行動である。心なしか太平洋のとりのほうがたくましい。この辺の鳥からすれば何をこのんで餌の少ない太平洋の真中までいくのか、と思っているにちがいない。
わが身も同じである。平和な暮らしが陸にはあるのに、なにをまた好んで太平洋に。。生物はみな似たところがあるのだろうか。
小さなヨットが次第に大きくなってこちらに向かってくる。おそらくグレンさんの船に違いない。でもこのボニ−タは素晴らしいポイントだ。こちらからは向かわずにここでまつことにしよう。船には大勢のっているようだ。
かなり接近したところで突然大きな拍手が起こった。全員たちあがって拍手をしている。わたくしも大きく手をふってこれにこたえた。劇的な出会いである。
つづく(2006年9月30日掲載)

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(38)村田和雄−太平洋航海記−8月23日 SFYC到着

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「70歳の太平洋航海記」の英文レポートを翻訳いただきました元山芳彰さんに感謝申し上げます。
本になりました
2007年6月21日発刊
70歳 太平洋処女航海

(2007年6月21日発刊)
解説
序文
はじめに
出版社のコメント
在庫のある書店
<目次>
=== 第2部 ===
サンフランシスコでの思い出
1) 感激のゴールデンブリッジ
2) 陸地接近の危機
3) 歓迎の波
4)-(1)素晴らしきひとびと
4)-(2)素晴らしきひとびと
5) ヨット遊び
6) 航海を振り返って
  (1)孤独とは何か
   (2)自由と不自由
7) 海の様相
  (1)風と波
  (2)海の色
  (3)海の生き物(4)海のとり
          (第2部、了)
航海記の最終
(38)8月23日 SFYC到着

村田和雄経歴

旧ユアサ・コーポレーションで研究所長・欧州総責任者などを歴任、代表取締役専務を退任後は台湾のデルタ電子の特別顧問。英国滞在中、「How to Make Japanese Management Work (in the West)」などを著作。大学時代からヨットを趣味とし、2000年からレーサー級の世界選手権ヨットレースに個人として参加している。70歳までは仕事中心の人生であったが、いつかは大自然を肌で感じる大きな冒険をするのが若い頃からの夢であった。数年前から太平洋の航海を決意し、写真のクルーザーを発注、昨年末から完成したクルーザーの調整とトレーニングに入った。1935年生まれ。横浜国大工学部卒。
村田和雄氏へのメールは
こちら




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