寺原松昭・58歳、新たな出発 ◇夢のフェリーパイロットとして◇ |
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2009年1月26日(日) 終了のお知らせ
1年にわたり連載してきました「夢のフェリーパイロットとして」は筆者寺原松昭氏からの連絡により、
前第34報にて終了する事になりました。
2008年12月7日(日)
2008年12月3日(火)
2008年11月23日(日)
2008年11月16日(日)
2008年11月9日(日) 10月29日
既に、以前から、会社全体で、そうした、部下の手柄を上司が勝手に独り占めするという上司達の姿勢に対して、程々、愛想を尽かしていた私は、即座に、私の出身地の在る宮崎県に最も近い赴任地として、熊本乗員訓練所を転勤先に選び希望しました。そうしたら、その私の転勤の希望は、驚くほど直ぐに認められて、予定通りに私は転勤の辞令を受け取ると、バタバタと忙しくも、楽しい様な、初めてのサラリーマンの転勤・転居生活を体験したのでした。 しかし、転勤早々に、私がセスナ社の日本に於ける総代理店であった当時の野崎産業から、サイテイーション5型という小型ジェット機を、熊本空港に呼んで、並み居る操縦天才揃いの応用訓練の教官達に小型ジェット機のデモ・フライトをして貰ったのです。そうしたら、私が赴任早々に会った新・上司は、「一体、何事が起きたのか。」と驚き、全日空にとっては、せっかくの精鋭機のシャイアン3A型機までもが、まるで霞みそうな、その小型ジェット機の優雅なデモ飛行事件で、すっかり、オカンムリの顔でした。 いざ、家族と共に一家総員で熊本空港に到着すると、地元には幾つかの飛行クラブがありまして、私は、その中でも、最も高性能な350馬力の6人乗りのセスナ機を持つ福岡のH開業医師を中心とする飛行クラブに加入しました。また、一方で、当時は、アマチュア界でも、既に、全国的規模で有名に成っていた岡村五郎さんや、熊本の英雄パイロットの荒木勇一さんも、大変、お元気で、一緒に都城市主催のエアーショーや、新たに立ち上げたスーパーウィング飛行隊として、編隊飛行の演技の為に、遠く鹿児島県の南西端、枕崎市営飛行場まで出掛けたものでした。 一方、全日空でも、当時、新規購入したパイパー社製シャイアン3A型ターボプロップ訓練機4機を揃えて、新人副操縦士の為に応用訓練を全国各地に飛ばせて実施していましたから、そこで、私の担当した業務は、そのシャイアン機の応用訓練飛行におけるデスパッチャーの様な運航管理の仕事が中心でした。更に、最終的には、5機の実機と共に、2台の高性能最高精密シュミレーターを購入していましたから、私も、時々、担当する愛航メンテナンス社の技術者に頼んでは、自分の計器飛行の訓練にもシュミレーターを利用させて頂きました。お蔭様で、私の操縦技量の方も、本コースの副操縦士に負けず劣らず、その頃は、みるみる効果的に計器飛行の操縦技量が伸びていました。それは、私のパイロット人生の中では、確かに、他に比較も出来ないくらいに、大変、有意義な1年間だったに違いないだろう、と思います。 10月30日
グリーンランド島では、11月19日には、原住民を中心とした全島民に寄る一斉選挙で、新たな国として、今後、デンマーク国から独立をするのかどうかの基本方針を決めるのだそうです。そう成れば、多分、住民の説明では、10年以内には、日本人やモンゴル人と同じ、蒙古斑点を持つ非常に近い人種による3つ目の国家が地球上に誕生することに成ります。もしかしたら、グリーンランド人は、我々、日本人の遠い親戚かも知れません。 そう云えば、10月12日、日曜日は、グリーンランド島、カンガルースアック町で、地元のアルバトロス旅行社の主催により、一部のコースは、氷河地域にも及ぶ一大マラソン大会が行われました。遠く、デンマーク本国からも参加者が集まり、合計100名以上が、参加しましたから、町の人口は、突然、2割ほども増加しました。時には、50センチほどの深みの雪の中のコースも走り、結果、第一位のマラソン記録は、3時間30分だったそうですから、雪道のコースでは、大変な好記録だった様です。読者の中で、特に、自信の有る方は、是非とも、来年は、日本からも出掛けて行って、グリーンランド島での、このマラソン大会に挑戦して見てください。 10月31日
これまでの、過去の一つ一つの具体的な飛行体験の中で、何か一つでも、自分の反省出来る点を探し出し、いつでも、その解決策を絶えず進んで追い求めることこそが、今後の、より良い飛行技術を見つけ出す、何らかのヒントに成れば良いと常々から希望しています。自分の過去の飛行経験の中から、多くの先輩パイロットや、時には操縦教員が示してくれた素晴らしいテクニックを頭の中で、一つ一つ再生して見て、振り返って思い出す時、一日も早く、そうした、先輩方の持っていた最高度の操縦レベルに近づきたいという気持ちは、極、自然に、一層強まるものです。 ホンの少しだけ、私とて、過去の飛行の一部を振り返って思い出すだけでも、先人パイロット達の、4人や5人以上の、その中でも、最も尊敬する先輩パイロット達の模範的な操縦技術は、いつでも、私の脳裏から消え去ることは無く、常に、より良いパイロットとしての道標と成って、今日の職業パイロットとしての新しい私を導き、支えてくれていることには、今更、何の疑いも有りません。 私の仲良しグループの一人、ダスチン君は、今回、パイパー製単発機で、テキサス州からコロンビア国の首都、ボゴタ市行きだそうです。途中は、メキシコから中南米経由なのか、それとも、カリブ海経由なのか。「カリブ海経由なら、担当を、代わっても良いよ。」と、私は返事を書きました。 ダスチン君の話では、当初、アフリカ行きを私に指名されていた高性能T210型セスナ機は、新たに、担当パイロットが、別途、指名されて、カナダの東端、セント・ジョーンズ空港まで行ったら、其処で、何と、何と、担当パイロットが洋上飛行を拒否し、飛行機をその場に放置して、サッサと自分の故郷に帰ってしまったそうです。 そこで、ダスチン君の早速の予想ですが、「松。ウクライナの次は、やっぱり、アフリカ行きに決定だね。」と、連絡して来ました。私にとっては、延び延びの、憧れのアフリカ行きですが、読者の皆様で、アフリカ行きを希望される人が居たら、是非、ポルトガル辺りで、待って居てください。そこから、南アフリカまで、3日間の旅、便乗させますよ。いやいや、間に合わないかな。
2008年11月2日(日)
2008年10月19日(日) 「あれ、れ。」と、思った。何と、計算上は、このまま今日の最終目的地のデンマーク国コペンヘーゲン市の裏側、ロスキルデ空港まで、ギリギリ行けるかも知れないと、いう、驚く様な、計算結果が出たのである。「そんな筈は無い。」何しろ、依頼主であるベテラン・パイロットさえ、精々飛べても、この飛行機は、「最大限度700海里しか飛べない。」と言い切っていたのだ。多分、依頼主は、この飛行機の翼端に補助燃料タンクが有ることを知らなかったのだろう。しかし、もし、万が一、依頼主が、補助燃料タンクが有ることを知っていて、その上で、そう云っていたのなら、私の計算が、完全に間違っていることになる。それで、私は、何度も、何度も、最初から計算を繰り返したが、その結果は、デンマーク東部まで、何とか、このまま飛べそうなのである。 もし、途中で、燃料が枯渇したら、どうなるのだろうか・・・いや、多分、その時点では、もう、洋上区間ではないだろう。だから、その位置は、洋上区間を過ぎて、多分、ノルウエイ国領土からデンマーク国領土の近くの間の空域だろう。その場合なら、燃料が無くなる直前に、航空管制に連絡を取って、近くの空港に、直ぐに着陸出来るだろう。幸いにも、本日は、北ヨーロッパ地域の天候は、大変恵まれて、良い様だ。私は、一旦、「よし。」と、決断をすると、アイスランド航空管制に、目的空港の変更を願い出た。「こちら、N911 号、目的地変更を願う。」、何と、私の機番は、最近良く聞く、“911”だから、アイスランド空港管制は、迷わずに、直ぐに返答をしてくれる。私が、具体的な用件を伝えると、「こちらアイスランド航空管制、N911号、了解した。しばらく待て、目的地変更をこちらで調整して見る。」 とは、云うものも、私も、正直なところ、本当に、デンマーク東部まで行き着けるのかと、相変わらず、半信半疑なのである。「本当に、私の計算は正しいのだろうか。」と、航空管制官の行う調整作業の結果を、ジッと待っている間も、あれこれと、余計なことまでも考えてしまう。やがて、30分ほどしたのだろうか、突然、アイスランド航空管制から、先ほどの返事が着た、「N911号。こちら、アイスランド航空管制。貴機の目的地変更を許可する。直ぐに、ノルウエイ航空管制と連絡を取れ。」と、云う。「なる程、もう、ノルウエイ航空管制の領域に近いのか。」と、待ち時間が長く感じられたが、そこで一呼吸して、ノルウエイ航空管制に最初の連絡を取ると、「N911号。こちらノルウエイ航空管制。こんにちわ。」と、挨拶の後、即座に、「N911号。目的地に進路を定めよ。全行程の直行を許可する。」 「え、エツ。そんな馬鹿な。」と、私は驚いた。デンマーク東部の目的空港までは、まだ、700海里(1,260キロ)もある。こんな所から、本当に、直行飛行をしても良いのだろうか。まるで嘘の様な航空管制官の対応である。「こんな遠い所から直行飛行をして、一体、他の航空機には、一切、支障が出ないのだろうか。」と、考えたが、しかし、そうすると、何と、私は、目的地に到達出来る可能性が十分に高まった、ということになる。これは、何と有難いことなのだろうか。これなら、到達出来る可能性は、7割になったのだろうか、それとも、8割になったのだろうか。イヤイヤ、喜んではいられない、今後は、残り2割か、3割かの実現不可能な場合だって、十分に考慮しておく必要が有るだろう。もう一度、最初から最大航続距離の計算をして見よう。 そして、第二番目の着陸地である、ノルウエイ国のスタバンガー空港を左に見ながら通り過ぎると、さすがに、私は、少しずつ、主翼内の残燃料が、本格的に気になって来たのである。私は、最も効率良く飛行機を飛ばす為の様々な工夫を、何度も考えては、それを実行して見た。「本当にデンマーク東部まで飛べるのだろうか。それは、依頼主の想像を越える、合計、1,200海里にもなるのである。」と、心配の余り、何度も何度も、私は、燃料の計算をして確認をした。確かに、何とか成りそうなのだが、しかし、空港への進入中にレーダー管制で、あちこちと引き回されたら、燃料は直ぐに枯渇し、大変な事態になる。「今回、目的地のロスキルデ空港へ、果たして、すんなりと、着陸させて貰えるのだろうか。」と、最後の心配事が有る。 やがて、ロスキルデ空港まで、残り100海里と成った。もう、燃料は、僅かだ。残り50分の燃料だろうか。そして、あと残り75海里、残り45分間の燃料は無さそうだ。更に、残り50海里。着陸のやり直しは危険だろう。すると、航空管制が、進入管制に代わった。「N911号。無線局から、南東に飛べ。そして、滑走路に向かって、計器進入を行え。信号に乗ったら、報告せよ。」と、云われたのは、残り、15海里の距離だった。やっと、夕闇の始まる前の頃、目的地空港の進入灯が、様々な明かりと共に見えて来た。まだ、外は、明るい。世界時間は、18時前だが、デンマークは、午後20時前だ。「N911号。着陸を許可する。そのまま、東に向かって滑走路に着陸せよ。」「ロスキルデ空港管制、有難う。N911号。車輪の確認を行ったので、指示に従い、今、着陸を行う。」 そして、修理を終えていた3箇所の車輪は見事に機体を支えてくれ、滑走路への着陸を果たした。駐機場へ行く間も、残燃料量は、まだ、気になる。多分、バケツ一杯分の燃料しか残っていない筈である。荷物をまとめて、空港事務所に向かうと、待ち受けたのは、皆顔見知りで、いつもの親切な空港職員達だった。いつもの担当者が、「タクシーも呼んだし、ホテルもいつもの高級ホテルだ。疲れたでしょう。今夜は、ゆっくり休みなさい。明日は、何時に出発する?」と、聞いてくれるので、「多分、お昼時になると思う。」と、私は、笑いながら、笑顔で職員に答えた。空港ロビーの外でしばらく待っていると、間もなく市内から大型ベンツ製タクシーが迎えにやって来た。そして、タクシーに乗り込み、鉄道駅の前を通って、いつもの中庭の有る清潔そうなホテルに着いた。中庭側の玄関から中に入ると、地元の通関業者が手配したホテルのチェック・インは、極、簡単だった。 しかし、驚いた空輸飛行の依頼者から、次々に、E-メールで、質問が届く、「どうして、700海里しか飛べない飛行機が、1,200海里も飛べるのか。信じられないが、しかし、現実は疑えない。」と、云うもので、何度も、何度も、返事を書いて答えたら、「電話で話したい。」とも、興奮した様で、ホテルの電話番号を聞いて来る。ついに、私は、21時までの夕食のチャンスを逃してしまった。そして、間もなく、「まったく、驚いた。」と、わざわざ、ホテルに会いに来た通関業者と、30分間ほど面会した。その後、自分の部屋に入り、机の上に荷物を置いて、そのままベッドの上に横になった。その時、改めて、「助かった。」と、ホッと溜息を吐いた。 *********************** <コメント>
新規編集担当として 澤井孝雄 この度、高校時代の友人の寺原君より、ひょんなことから編集委員?をやってくれと頼まれました澤井です。どうなることやら分かりませんが、少しづつやってみますので、宜しくお願いします。 表題に戻る 8月29日
9月1日
つまり、短距離区間は超短波無線信号に寄るVOR指示器に頼り、中距離飛行区間は、中波無線信号に寄るADF指示器に頼って、飛行せざるを得ないのですが、実は、中波無線信号を発信する大西洋岸のNDB無線局の信号は弱く、僅か100海里ほどしか届きません。太平洋岸に位置するNDB無線局と比較すると、短距離用の無線局ということになります。
当然ながら、気象予報から得られる予想風というものは、余り当てには成りませんが、全くの出鱈目では有りませんから、やはり、一番参考にすべき基礎データーです。
そんな縁で、彼女と御主人のコリン・ワトソンさんと私の3名で、ロンドン郊外の小さな空港から、スイス・アルプスを越え、コロンブスの育ったイタリア・ジェノヴァまで、双発パイパー機で飛行出来たことは、今年の夏の私の良い思い出でしょう。彼女にとっては、ポジテイブ・コントロールなど、様々な新しい操縦法について学ぶことが多々あったのかも知れません。 ************** <ジェノヴァ地下鉄事件> ジェノヴァでのこと、港の近くのコロンブス海ホテルに宿泊していた我々3名で、市内の中心街に向かうのに地下鉄に乗った時のこと、山の方から下りて来た地下鉄の2番目の駅に我々3名が到着し、さて、切符を買おうという話になりました。そこで、私が試しに自動販売機に10ユーロを入れると、お釣りの3ユーロだけが出て来て、肝心な切符が待っても出て来ません。困ったものだと周りを見渡しても、我々以外には誰も居ません。 しかし、改札口に行くと、ゲートは開き、我々がプラットホームには行けそうです。という事は、電車には乗れそうですから、そのまま目的の市内の終点まで5つの駅くらいは行けそうですから、思い切って終点まで行けば、地下鉄職員にも会えそうです。そこで、事情を話して、切符を交付して貰おうという事になりました。 我々が地下鉄に乗って、5つ目の駅が市内の中心地です。電車を降りて、長いエスカレータに乗って昇ると、改札口が見えて来ました。その改札口の横に、自動販売機が幾つか在りました。そして、そこに2人の地下鉄職員らしい人が居て、カバーを開けて自動販売機を点検しています。 我々は、職員らしき人に声を掛けて、事情を説明しようとしますが、相手は、英語が分かりませんから、盛んにイタリア語で応答しています。そのイントネーションが強いので、私の英語も、イタリア語の様な語尾にこぶしを利かせた強いイントネーションの変な英語に、突然変わります。お互いが、お互いの言い分を、よく分からないから、いよいよエキサイトして来ると、さすがに、それを見かねた、ワトソンさんが割り込んで来て、「切符が無いのなら、新しく買えば良い。」と、私を嗜めます。私は、「いえいえ、私は、今イタリア人との、議論を楽しんでいます。」と、笑って答えると、ワトソンさんは、口アングリの状態になりました。 結果、私だけが職員と共に、元の駅に返り、そこで予定していた切符を手にしましたが、それは3人分の切符でした。その後、何度も同じ終点駅を通過する度に、先ほどの職員が、「チャーオ。」、「チャーオ。」と、親しげに呼び掛けてくれるようになりました。 *************** 8月20日 9度目の大西洋横断を終えて、只今ロンドンからトロントへ向かっています。同僚のダステインとジョナサンは、今日ケフラビックからウイックに向かっていると思いますが、グリーンランドを越える時に、機体凍結を起こして、ナルサルサック空港に途中から引き返したそうです。二人にとって、今回は災難の旅のようですが、二人とも2日以内には今の仕事を完了するのでしょう。 今回は、私にとっても、悪天候の北極圏をかすっての、2週間の長旅を無事完了出来て、ほっとしています。少しずつ、ヨーロッパの飛行にも慣れて、各国の管制官とも楽しく交信出来るようになりました。時には、彼らのアクセントを真似て応答するので、彼らもついつい笑っています。特に特徴ある英国人の発音は、時々耳障りで、私はからかい半分の気持ちで、積極的に物真似で応答して管制官を笑わせて楽しんでいます。しかし、昨日オランダからロンドンに抜ける海峡で、管制していたロンドン空域所属の女性管制官には、全く訛りが無く、かえって奇妙な印象を受けました。 私の操縦の腕も、少しずつ上達しているのが、自分でも最近感じますが、積乱雲に囲まれた空港に進入中、低空飛行でレーダー誘導中に、バケツをひっくり返したような大雨の中、無線も通じなくなると、雨水を吸い込んでエンジンが突然停止するのではないだろうか、という心配もしました。しかし着陸する頃には、急に嵐が過ぎ去ったような静かな天候に変わっていますから、不思議です。 話が変わりますが、雪の積もったグリーンランド・ナルサルサック空港で会ったドイツ人パイロット3名の、唯一人のプロ・パイロットとは、その後も何度か出会っています。何しろ、高速ピストン機に乗って、私のセスナ機の2倍近い速度で飛び回っています。私が一回の空輸を終える間に、2回から3回の空輸を完了する程の、ものすごい空輸の回数で大西洋を横断しているようです。
8月26日
「鯨を食べたかったら、ファロ(エ)ー諸島に来て下さい。」と言ったら、一体、何人の日本人がこの諸島に集まるでしょうか。
2008年6月23日(月)
2008年5月11日(日) “ここテーグからアムステルダム経由ですぐトロントに戻ります。そして5月上旬に2週間の休暇をとって日本に戻ることにしました。他社からのフェリーの仕事依頼もあって、このチャンスを逃すと多忙な夏季に休む暇はなさそうですから。”
2008年4月25日(金)
4月14日
飛行ルートはグーズベイ→クジュアック(カナダ)→イクアルート(カナダ)→ヌーク(デンマーク・グリーンランド)→クルスーク(グリーンランド)→ケフラヴィック(アイスランド)→ウイック(スコットランド)→エスブジャー(デンマーク)経由で、最終目的地のオランダへ。本部の許可がもらえれば、今回は、北緯66度を越えて、北大西洋横断の最北ルートを飛行してみるつもりです。 (以上寺原松昭氏のメール日誌を翻訳・編集:元山芳彰)
3月28日
カナダ・ヨーロッパ間冬のフェリー飛行写真より
はこちら
2008年4月 7日(月) カナダ・St.ジョーンズ及びモントリオールにて
2008年3月31日(月) デンマーク・Hotel Narsarsuaqにて
2008年3月24日(月)
この空港の危険度は非常に高く、特に今の季節に好んで飛んできたいパイロットは居ないだろうし、着陸料も千二百ドルと決して安くない。いずれにしても本部の指示待ちですが、私がこのへんぴな地で釘付けになっても文句を云わないのが、本部は不思議に思っているようです。
3月9日 同僚パイロット機の墜落?-去る2月13日アイスランド沖合いで、同僚のアメリカ人フェリーパイロットが1968年製Cessna310Nで、私と同じGoose Bayから飛び立ち欧州へ飛行中北大西洋で消息を絶ったとの連絡がありました。アイスランドの飛行管制局に雷雨の中を9千フィートの高度で飛行中、ひどい凍結が起き緊急着水を試みるとの報告を入れた直後に連絡が途絶えたそうです。サーバイバル・スーツは着用していたようですが、救命用ゴムボートを搭載していたかどうかは不明で、厳しい冬の北大西洋では、生存の可能性は非常に低いでしょう。その双発飛行機は私が飛行する予定でしたが、そのパイロットが上司に頼んで自分で選んだのだそうです。 3月10日
3月11―13日
Hotel Narsarsuaqにて
2月28日
2008年3月9日(日)
2008年3月2日(日) それに、空輸業者としては、本日、たったの10時間にも満たない飛行時間だけで、「本日の仕事は、完了。また明日。」とは、やはり、云えないだろう。収支決算上の配慮からも、もう少しだけでも飛んでおく必要がある。と、すれば、やはり、アイスランド国本島周辺地域までには、どうしても、今回の飛行で到達しておく必要が有るのではないだろうか、しかし、台風並みに発達した低気圧で、風速35メートルの強風なら、小さなアイスランw)ド国全体が、その強風に吹き晒されていると考えられる。アイランド国本島の風下側は乱気流だろう。 「それなら、最初から飛行計画通りに、指定していたスコットランド地方まで、思い切って、飛行を継続して見ようか。」と、考えて見ました。幸いにも、今回は、客室内に大量の燃料を搭載している筈だから、最初の飛行計画時の計算通りなら、充分に、到達出来る筈だ、と私は考えました。そして、残燃料の算出の為、これまでの消費燃料量を計算し始めると、結果的に、スコットランドまで到達しても、その上に、更に、3時間の燃料が期待出来ることに成りました。特に、本来のコースに従って遠回りをしないで、出来るだけ短距離コースを探し出して、直線的に飛行できれば、多分、何とか、スコットランドまでも飛行出来る筈です。私は、早速、アイスランド国の航空管制センター局に、定期旅客便を経由して、最終目的地の変更を願い出ることにしました。 運良く、先ほどの国際線の旅客機が、無線の中継通信を寡って出てくれました。その中継無線通信の結果、アイスランド国の航空通信センター局も、今後の、当機の目的空港変更の可能性を心配して、待っていてくれた様です。残燃料量を時間単位で換算して伝えると、「その様な大量の燃料を搭載できる飛行機が有るのか。」と、驚きを持って、問い返して来ました。空輸機だから、可能だと答えても、途中で燃料枯渇を起こすことを心配して、なかなか納得しないので、具体的な燃料量まで、容積単位で答えることに成りました。アイスランド国の管制センター局は、何度も驚き、そして、「スコットランド航空管制に、目的空港の変更希望を伝える。」と、云って、返答待ちの為に無線の中継会話は切れました。 しばらくすると、「アイスランド国の航空センター局から、「貴機の目的空港の変更を許可する。」と、中継機無しで、直接、伝えて来ました。VHF無線機が届く様に成っていました。しかし、困ったことに、その条件として、長距離用無線機が必要で、私の飛行機に装備されていないので、現地点から、直接、スコットランドに向かって進路を変えて、「完全な洋上飛行状態に成ることは許可できない。」と、付け加えて来ました。「それでは、肝心な、燃料消費削減が出来ないではないか。」と、私は、勝手に、考えましたが、合法的な考え方からすると、責任ある管制センターが許可しないことも、当然のことなのでしょう。しかし、私の確保出来る残燃料量は、大幅に減り、予定通りの量が期待出来ないことに成ります。「困った、もw)のだ。」と、自問自答していたら、いつの間にか、私は、無線交信が出来なく成っていました。「アレ、」と、思うと、同時に、「今こそ、チャンスだ。」と、咄嗟に考え付きました。無線交信の出来ない今が、変針の時です。 私は、直ぐに、機首を右に切り、アイランド国方向からスコットランド方向に、早速、変針させました。「このままの保針状態で、次に、何処かの無線局に呼び出されるまでの間、兎も角、私は、出来るだけ、スコットランドの方角に進もう。」と、決めたのです。燃料枯渇で墜落して、世間の笑い者に成るよりは、今、この場で得られた千年一遇のチャンスを活用したいと考え付いたのですから、そう成ると、今度は、私の操縦している小型機の遅過ぎる巡航速度が、変に、ジレッたく感じられる様に成ります。「急げ。急げ。」と、自分の心に呼びかけながら、私は、出来るだけ、スコットランド国の在る方向に、ズリ寄って行ったのです。2時間ほどすると、やがて、アイスランド国の管制センターが、定期便の旅客機を中継させて、私の飛行機局に呼び掛けて来ました。「もう少し、時間稼ぎがしたい。」ところですが、その為に、緊急時の連絡に支障があっては、反って薮蛇な結果に成りますから、中継してくれる旅客機に返事をすると、「現在地点を言え。」との、こと。 「今のところ、それだけは、困る。」と、言いたいところです。「出来れば、その件だけは、後ほどの質問にして欲しい。」とは、云えません。「一寸待て、自機の現在地点を確認する。」と、私は、一言だけ伝えてから、即座に、無線を休止しましたが、内心、本当に困りました。出来ることなら、「既に、当機の位置は、スコットランド側に300海里の地点、このまま、直接、スコットランドに向かいたい。」と、答えたかったのですが、今、私の飛行機の現在位置が管制センターに知られると、折角の進出距離を失い、即刻、既存の航空路コース上に呼び戻される恐れが有ります。「コーデネイト表示(北緯と西経の呼び表示)で答えろ、と云われていましたが、私は、自機の位置線の角度と相対距離で答えました。それを聞いた、管制w)センターも換算出来ずに困った様ですが、私の方は、燃料の消費量を増やしたくないので、更に、もっと、もっと、大きく困っています。当機の位置が確定出来ない管制センター局も、困っている様です。
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<ブログの紹介>
一般には余りなじみのない“フェリーパイロット”。生産された高額な航空機をメーカーから発注主である顧客に、直接、届けるのが主な仕事。 小型飛行機については、製造技術もマーケットも米国が断トツで世界一。米国から欧州に飛行する小型機フェリーパイロットは十数人しかいないらしい。 寺原松昭さんは、今年からその一人として、現在カナダ在住。天候不順な大西洋の小型機での洋上横断飛行には20時間以上かかり、成層圏を飛行しないので危険が多く、リスクの大きな冒険らしい。それを敢えて挑む、寺原さんの胸のうちは? 飛行の合間に、欧州各国とカナダ国から、都度、寄稿して頂くこととなった。 |
1.初仕事はセスナ機でドイツへ 2.貴方は、勇敢なパイロットだ 3.カナダからアイスランドへ 4.カナダからアイスランドへ-続 5.アイスランド着陸断念、スコットランドへ直行 6.グリーンランドで緊急着陸 7.長引くグリーンランド滞在と仲間機の墜落? 8.グリーンランド脱出、ニューファンドランドへ 9.小型ジェット機でグリーンランドからカナダSt.ジョーズへ 10.神秘的な冬の北極圏 11.新コンセプト機のテスト・パイロット役 12.ターボ・デイーゼル機でオランダへ 13.小型機フェリー中のリスク 14.短距離用セスナ機で大西洋横断を試みる 15.私は醜いアヒルの子? 16.不思議な島ファロ(エ)ーに着陸 17.不思議なファロ(エ)ー諸島 18.またしても不思議なセットランド諸島 19.日本より百倍巨大な米航空業界 20.日米のパイロット免許 21.若い仲間達 22.ベルファストへの旅 23.英国の日本人女性パイロット 24.パリの日本人パイロットのお化け 25.ルーマニア 26.変な日本語喋るアイスランド国の整備士さん 27.変な日本語喋るアイスランド国の整備士さん(続) 28.第一線パイロットの想像をも越える長距離飛行を実現 29.007は、果たして二度生きるのか、それとも二度死ぬ、のか 30.昔を懐かしめば 31.米軍と自衛隊の戦闘能力の違い 32.インド人パイロットの促成昇格と、日本のお粗末パイロットさんの例 33.小型機の高速化傾向が助長されると 34.日本のコミューター航空が存続する難しさ
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