寺原松昭・58歳、新たな出発
◇夢のフェリーパイロットとして◇
“フェリーパイロット”とは、生産された高額な航空機をメーカーから発注主である顧客に、直接、届けるのが主な仕事。 米国から欧州に飛行する小型機フェリーパイロットは十数人、寺原松昭さんは、今年(2008年)からその一人。58歳から第2の青春、 危険が多くリスクの大きな冒険の始まり。カナダ、グリーンランド、北極圏の写真集もどうぞ。
2009年1月26日(日)
終了のお知らせ

1年にわたり連載してきました「夢のフェリーパイロットとして」は筆者寺原松昭氏からの連絡により、 前第34報にて終了する事になりました。
ご愛読頂きました多くの皆様に御礼申し上げます。(編集子より)

2008年12月7日(日)
第34報 日本のコミューター航空が存続する難しさ

 11月30日
 函館空港を拠点としていた新規参入コミューター航空会社を、東京のタクシー会社の女性社長が引き継いで、その名称までも変えて挑戦していたエアトランセ航空会社も、「新たな挑戦」とは名ばかりで、地元のタクシー業界との業務提携のニュースばかりで、ついに、見当違いな対策を採る経営者の能力不足がたたってか、実質的に不定期旅客運送路線から早々に撤退してしまいました。そして、単なる飛行機のレンタル会社に変貌してからは、全く、見る影も無い有様ですが、その一方では、長年頑張って来ていた佐渡路線からも、また一つ、天然記念物のトキをモチーフにしていた老舗のコミューター航空までが消えてしまったことは、新潟県の地元住民にとっても、また佐渡に憧れる観光客の皆様にとっても、大変、残念な結果でした。

 何しろ、日本のインフラは余りにも高額過ぎて、新規航空会社が幾ら頑張っても、日本では、どうしても、上手く行かない様な社会構造になってしまっている様です。況してや、元々が、航空業には素人の女社長に、今更、どうこう出来る様な気安い航空界の社会構造には成っていないから、最初から、今日の悲惨な結果は目に見えていたのでしょう。経済の流通部門を握る日本の銀行組織にしても、欧米の銀行の運営方法に比べたら、300年以上は遅れている様子ですから、銀行首脳部の気紛れ一つで、既存の会社の一つ、二つくらいは、いつでも倒産させられる社会構造に成っている様子なのです。まだまだ、日本では、江戸時代からのお代官様の時代感覚で、未だに日本の銀行組織全体が編成され、御上意識に寄って行政指導されているのでしょうから、新規参入の挑戦には、最初から、日本では、新参者に、全く、勝ち目が有りません。

 昔から、沖縄の小さなコミューター航空会社を、私がよく知る整備士仲間が、実質、運営していたので、しばしば、FAX紙に斬新的な企画案の詳細を書いて送信し、その運営を、長く、励ましていましたが、日本では、コミューター航空会社というのは、元々、資本力が乏しく、なかなか経営が上手く行かないらしい様です。長年、沖縄の大きな旅行会社が、そのコミューター航空会社の株式を引き受けてくれていたので、営業成績は低迷はしていたとは言うものの、安定的に地域の住民には、長年、愛用され、大きな社会貢献を果たしていたことは事実なのでしょう。

 しかし、最近、東京のインターネット会社が、沖縄県の優遇政策に乗じて沖縄地方に乗り込んで来ると、何を考えたのか、そのコミューター航空の株を過半数以上も握ると、何だか、社内の事情が、突然、一変し、まるで、台風でも吹き荒れた様で、結果的に、不幸だけが襲い掛かり、航空業界では、割に古くから活躍していた東田氏という、一見しても、人の良さそうな整備部長が、何と、社内で首を吊って自殺したらしいのです。1整備部長という要職の責任者がわざわざ、早朝の職場で責任を感じて首を吊るのだから、新たな企画を無責任にあれこれと無理やり押し付けられたのか、どう考えても、その上司の身代わり冤罪の果ての、悲劇的な結末のことだろうということくらいは、誰が考えても、直ぐに想像出来ることでしょうが、何も、御本人が死ぬことは無かったのでしょう。死んで、御本人は、一体、何を護ったのであろうか。御本人の名誉だったのだろうか、いやいや、証人が死んでしまったら、残った悪人たちは、有りもしない犯罪さえも、死んで口無しの仏様の所為にして、自分達の後片付けを綺麗にするでしょう。

 私は、東田氏とは、彼がロサンゼルス出張中に、一緒に同行して、仕事を手伝った経験も有るし、長年、彼とは懇親にしていたから、人柄や性格も良く知っていたし、彼が、少なくとも、会社の問題や何かの過失で責任を取らせられなければならない様な悪事を働く様な人間では無かったことだけは、誰が見ても、確かだったのだろうと思います。だから、彼が、何かを庇い、誰かを庇って、その結果、誰かに裏切られ、一人無念な気持ちで孤独に死んで行ったのであろう、かと、今回だけは、私は、しっかりと、憶測するのです。

 この件については、また後日、詳しい事実が判明したら、その詳細な結果をこの場を借りてでも、後々に発表したいと思いますが、今は、ただ、これだけの発表段階に止めておきたいと思います。御家族にして見れば、最も頼れる御亭主には、今後も、ずっと生きていて欲しかったと思うだろうし、私が考えても、ずっと生き続けて欲しかった人情味溢れる人柄だったからこそ、彼の死が、実に残念でならないのです。この場を借りて、故・東田氏に対し、心から御冥福をお祈りしたいと思います。

 12月 1日 ついに、2度目の師走が、私にやって来ました。昨年、私が大西洋で空輸飛行の仕事を始めて以来、丁度、一年目の12月が、再び、やって来たのです。一年前は、どこも彼処も凍結した冬季の気象厳しいカナダ東岸のグーズベイ空港から、いきなり、荒涼とした英国のスコットランドまで、夜通し、実に21時間以上掛かって、大西洋を一気に洋上飛行で飛び越えたら、関係者のみんながビックリしていましたが、それからの1年間にも、私の身の回りでは、実に、多くのことが起きた様に記憶しています。

 最近、昔から親交の深い南アメリカの元・軍隊ヘリコプター・パイロットが、あれこれと、ヘリコプターを利用した新規事業を提案してくれるので、ほどほどに、その話し相手に成って、最近は、盛んに連絡を取って提案された企画を詳細に分析して事業の可能性として楽しんで検討しています。元々、ヘリコプターという乗り物は、実に、万能で、様々な事業分野に応用できる無限の様な可能性を持っている様に感じられるから、確かに、運用コストは、多少、高くても、将来性も有り、面白そうな乗り物です。私は、グライダー操縦同様に、ヘリコプターの免許も取らず、これまでに、2年間ほどもヘリコプターの操縦訓練を受けていましたが、そろそろ、友人に刺激されて、本格的な免許でも取得して見たく成りました。

 ヘリコプターの運用コストが、昔から高額だったので、昔のヘリコプター初期訓練では、官民問わず、必ず、最初の100時間近くを、小型の飛行機で入門程度の操縦訓練をしてから、その後に、本格的なヘリコプター操縦を開始するのが、極、一般的でしたが、近年、その小型飛行機ほどの小さなレシプロ・エンジンでも飛行できる驚くほど小型の二人乗り訓練ヘリコプター機が米国のロビンソン社から発売されると、途端に、ヘリコプター初期訓練の全過程を通してヘリコプターを使って訓練するという何とも贅沢な訓練方法が世界中で定着する様に成り、ひと昔前の老練ヘリコプター・パイロット達を、今では、驚かしています。

 ヘリコプターの操縦では、機構上、両手両足を、精一杯(フル)に使って、パイロットが操縦をする必要があるので、中年の紳士の老化防止やボケ防止には格好の乗り物かも知れませんが、実にデリケートな動きにも、パイロットが、いちいち適切に反応する必要があるので、出来れば、老化前、ボケる前にヘリコプターの操縦を習った方が良さそうです。多少、ボケてからのヘリコプター操縦の訓練には、当然ながら、御家族や周りの人達から大きな抑止の意見が飛び交うことに成るでしょう。その両手両足を使う状態から、更に、無線機を調整し、GPSにデーターを入力をし、様々なスイッチ類を操作するのですから、やはり、どうしても、ヘリコプター操縦には、最初から、人間の手がもう一本必要なほどの無理な条件が重なります。

 それにしても、ヘリコプターが空中で静止し、あるいは、空中を逆走(バック)する様子は、一般の飛行機乗りのパイロットには、余りにも、刺激的な飛行術で、おいそれとは信じられない驚きのハップニング・ショーなのでしょう。当然ながら、その様に、特殊な動きをするヘリコプターを操縦した後に、同じパイロットが、そのまま、直ぐに、カテゴリーの異なる飛行機に乗り換えて操縦することも、大変、危険なことには違いありません。FAAでは、その二つの異なった乗り物を、相連続してパイロット訓練生が訓練することを、「逆効果」現象として、強く警告しています。

 日常的に、航空機の普及した先進国の米国、等で、良く起こるハプニングは、ヘリコプターの訓練基地に、飛行機を操縦して通う訓練生の都合で起きます。恥ずかしい話ですが、私も、一度だけ、ヘリコプターの初等訓練に、小型飛行機を操縦して訓練所に行き、ヘリコプターの訓練を受けたところ迄は良かったのですが、その後に、再び、小型飛行機で別の飛行場に帰宅する際に、その時まで、未だ、依然として、ヘリコプターの操縦感覚が残っていたらしく、小型飛行機を滑走路上で、失速速度まで落として仕舞い、ドン着(ドッスン、と着陸すこと)に陥った経験が有ります。勿論、滑走路上での高度が低かった為に、何でも無かったのですが、もし、仮に、高い飛行高度から、失速状態で落ちていたら、大変なことだったのでしょう。勿論、責任追及の厳しかった同乗者には、何度も、低身、謝りましたが、そのドン着に気が付かなかった同乗者も一緒に居ましたから、更に、私は驚きました。

 万能なヘリコプターの最大の弱点は、大きなローターに寄って生じた反作用を、何かで打ち消す必要があること、と、もう一つは、自分の浮力(揚力)を得る為にローターを回して掻き下ろした大きな空気流の中に、ヘリコプター自身が落ち込むハップニングでしょう。これだけは、どうしても、未然に防止し、前向きに解決する為に、パイロットが、精一杯の努力を払う必要が有ります。小型機と違い、大型ヘリコプターでは、AFCSと呼ばれる自動操縦装置が手伝ってくれますが、最近は、更に、D・AFCSと、Digital の表示を付けた、更に精度の高い自動操縦装置も誕生しています。ここまで電子機器が進化して来ると、天気の悪い日の計器飛行状態でも、法的には、全く、副操縦士を必要としない「特典のオマケ付き」ヘリコプターに変貌します。

 大きなローターを、空気中で回すと、ヘリコプター本体は、逆向きに反作用を受けて、ローターの反動で逆向きに回されますから、それを、「回されまい。」と、踏ん張る必要が必ず生まれます。地面の上なら、土を踏ん張って頑張れば良いものの、空気中では、地面に足が届かないから、周りの空気を漕いで、その反動で、機体の自転を防止します。その目的の為に、その役割を、尾部の小さなローターが受け持ちます。上部の大きなロータ−が、速く回れば、尾部の小さなローターも速く回り、上部の大きなローターが、たくさん空気を掻けば、尾部の小さなローターもたくさんの空気を漕ぐことで、ヘリコプターの本体を、定常的に静止させる為の微妙なバランスを、パイロットの両足で、微量、調整して、保ちます。

 次は、上部の大きなローターが、大量の空気を上方から、下方に掻き下ろすことで、ヘリコプター自体が浮揚しますから、ヘリコプターの下方には、大きな下降気流が発生しています。地面の近くでは、それが、地面に叩き付けられて屈折し、そこに短期期間残留するから、そこの部分だけの気圧が一時的に高く成って、「地面効果」という有りがたい現象も生まれ、ヘリコプターを空気中に支える援助をしてくれます。

 しかし、ヘリコプターの下方、直ぐの位置に地面が無いと、巨大なローターで掻かれた下降気流は、ずっと、そのまま下降気流のトンネルを造り、ヘリコプターが、不慮に、沈んだ様な場合には、その下降気流のトンネルの中に、ヘリコプター自身が落ち込む事に成ります。こう成ると、自分で掻いて造った下降気流のトンネルの中で、ヘリコプターがモガキながら転落して行くことに成り、なかなか、再上昇出来なくなります。これが、ヘリコプターの事故に繋がりますから、パイロットは危惧し、日頃から、この下降気流のトンネルに落ち込まない様に気を付けています。ですから、読者の皆様には、今後、飛んでいるヘリコプターを見かけたら、その下に、一体、どの様な形をした、「下降気流のトンネル」が発生しているかを、是非とも御自分のイメージで、楽しみながら想像して頂きたいと思います。

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2008年12月3日(火)
第33報 小型機の高速化傾向が助長されると

11月25日
 車輪の格納出来ない固定脚のピストン式(別名:レシプロ式)飛行機では、余りにも空気抵抗が大き過ぎて、精々、140ノットも出せれば、実用小型機の中では、もう、十分に、高速機だ、と昔は賞賛されていました。しかし、セスナ社から、突然、大馬力のターボプロップ式エンジンを搭載した固定脚のセスナ製キャラバン小型単発飛行機が市販されて、世界中に普及して以来、極、普通の実用機なのに、突然、170ノット以上の速度を記録した時に、もしかしたら、このまま小型機の高速化が続けば、将来、固定脚式の小型ピストン機でも、あるいは、170ノットを越えられるかも知れない、と一部の専門家の人達には、密かな興奮を感じることが出来たのでしょう。何と、それが、今日では、その通り、現実のものと成り、連日の如く、我々を、レシプロ式エンジンの小型高速機が驚かして、実に、楽しい毎日に成りました。

 極々、普通の最も小型の、4人乗り実用セスナ機では、160馬力のレシプロ式エンジンを搭載して、現在でも、巡航速度は、大体、110ノットくらいでしょうから、メートル法に換算すると、時速200キロ・メートル位の速度に成りますので、これなら、自家用車よりは随分速くても、しかし、旧式の新幹線よりは、少し、遅いくらいの旅客輸送の速度だと言えそうです。ところが、ここで登場した、その最近の小型機が達成した170ノットの速度が、一体、どれくらい速いのか、と例えて言えば、新幹線の中でも、取り分け、一番速い最速現行モデルの車両よりも、「更に、速い。」ということに成ります。しかし、他方で、あくまでも実用性を全て無視し、スピードだけが目的のF-1レースカーには、それでも、まだまだ、ずっと、劣ります。しかし、F-1と比較するには、それに乗る人も違えば、本来の運用目的の範囲が全く違います。そこが、我々一般人にも、容易に、誰にでも利用できる実用小型飛行機と云われる便利さの所以でしょう。因みに、皆様の御想像通り、F-1レース・カーというものは、とても、ソンジョ其処い等のどなたにでも、安易に運転出来るものではないそうですから、一般庶民は、安易に近づくのも、大きな抵抗が有ります。

 そして、最近では、多くの300馬力以上の高出力ピストン・エンジンを装備した小型飛行機では、例え固定脚式の飛行機でも、巡航時に、170ノット以上が出せる様に成りました。その主な理由には、日進月歩の科学技術の格別な進歩に、多くの要因が有りますが、第一に、飛行機の外皮が、コンポジット材料と呼ばれる、日本式な呼び名ではプラスチック材料を中心とした製品の仕上げに寄り、表面がつるつるとしていて、空気抵抗が少ないので高速飛行には、大変、有利です。また、大変、効率良く推進力が得られる新型プロペラの開発も進みました。更に、高強度材料の開発に寄り、比較的、細い車輪脚でも十分に重い機体を支えられる様に成ったこと。それから、更に小さなタイヤを高速で回転しても、タイヤ自体が、超高速回転に耐えられる様に成ったこと。更に云えば、比較的大きな重量にも耐えられる丈夫な高圧タイヤが、近年、続々と、開発され市販される様に成ったことが大きな要因だろうと思います。

 車輪を出したまま飛行する為、物凄く空気抵抗の大きい固定脚のピストン式小型飛行機でも、170ノットを越える高速飛行が実現出来ると、更に、高速に適した、車輪を格納できる小型ピストン機では、高速化が急速に進みつつ、現在では、230ノットを越えるところまで実用小型ピストン機の速度記録が、順調に伸びている様ですから、近い将来には、毎時250ノットまでも高速記録を伸ばすかも知れません。こうした、小型機業界での高速化が進む中、それを、更に助長・加速させる様に、英国では400馬力の比較的小型のターボプロップ・エンジンまでが、最近、開発されました。このエンジンが現在の小型飛行機に装備されるだけでも、直ぐにでも、300ノットの壁が小型飛行機によって、容易に破られそうな現在の小型機産業界の興奮に満ちた状況なのです。

 11月26日 思い出せば、私は、エアーラインのB727型機の航空機関士として、航空会社に採用されて入社したので、青春の真っ只中を、ただ、ジェット旅客機の構造システム教育の訓練だけで過ごしました。当時は、次期採用旅客機材として、ボーイングB767型機が決定していたので、その機材に航空機関士が必要なのかどうかの最終判定の真っ最中だったそうで、我々の日々の訓練にも、微妙にその影は射していました。

 国際線の先輩としてJAL社の航空機関士の歴史は古かった様ですが、我々は、後発航空会社として、ボーイングB727型機が輸入されるに至って、ようやく、航空機関士なる新たな職業が結成された為、社内での、その職業の歴史は浅く、当座凌ぎに、外国航空会社や社内の整備士をかき集めて、俄か養成して編成していた為、先輩航空機関士の中には、学歴も中卒程度の者も多く、その後の、後輩の教育訓練などという立派な考え方も無かったところへ、新卒の我々が、突然、新人航空機関士要員として俄か造りの訓練計画に投入されたものだから、混乱この上ない状況でした。

 当然ながら、現役の航空機関士を兼任する教員職F/Eとの間では、最初から、当然、起こるべきして起きた軋轢の溝が在り、我々訓練生の側には何ら不満も述べられない一方的な権力の暴走可能な構造が存在し、元々、不良中学生上がりの様な航空機関士ばかりで全体が編成されていた為に、我々の訓練中には、当然、人権問題にまで発展しそうな事件ばかりが毎日の様に起きていました。例外的な、ホンの一握りの良識的なF/E教員を除き、多くが、全く、非常識な人間ばかりの集団で、操縦席で同席する多くのパイロット達からも、毎日、怪訝そうな目で見られていた航空機関士ばかりが、やたら目に付く状況でした。我々の中の多くの訓練生たちが、そういう現役の航空機関士たちの餌食と成って、迫害を受け、精神的に追い詰められて訓練途中で、弁解の余地無く一つの定期航空会社を去って行ったことは、真に、痛感の極みだったのです。

 11月27日 カナダ国トロント市を中心にした生活も、もう、足掛け、11ヶ月にも成ります。実際に、トロント市内に私が住んだのは、100日くらいなのでしょう。何しろ、中国人とベトナム人が多い中華街が、私の定宿にしているオーガスター通りに近いので、人種的には違和感が無く、比較的恵まれた環境で、その中華街や日本食店に行けば、食べ物でも、割に好きな日本食がいつでも食べられますから、食生活での安心感が有ります。寒い筈の北国に位置するカナダ国のトロント市も、少し慣れれば、日本の札幌の様な、心地良い、新鮮な街に見えて来ますから不思議なものです。市内東部に位置するらしい一部のスラム街の噂を除けば、真夜中でも、安心して夜遊びが出来る気楽さは、今では、米国では得られないカナダ国だけの治安の良さが強調できますが、それでも、やはり、外国人は、決して、安心し過ぎてはいけないそうで、相応に警戒感も必要です。

 トロント市の位置するオンタリオ湖畔から北側に広がるトロント市の大きさは、余りに大きく、ただ、驚くばかりです。それは、私が、初めて関東平野の大きさを目にして驚いた時の遥か昔の思い出にも似た驚きでますが、コト、スケールの大きさでは、その、関東平野も、北米大陸を眼にした今では、僅かに猫の額ほどにしか感じられない、巨大大陸の大きさというのは、我々、島国の出身の日本人には、遥かに想像を越えた世界を形作っている様です。先日、トロント市から、首都のオタワ市まで6時間の長距離バスの旅を経験しましたが、いつまで経っても、多少也とも、まったく景色の変わらない長旅には、何か、まるで、同じところを、ずっと、ぐるぐる回っている様な感じに受け止められましたが、やはり最後には、きちんと、オタワ市の終点に到着したことは、当然な結果でした。

 11月28日 最近に成って、仲間の一人、ダスチン君が、経済力の膨張する南アメリカ行きの空輸飛行の仕事をあちこちから探し出して来る様で、更に、多くの南米行きの空輸飛行の仕事が得られそうだと、私を南米方向に盛んに誘ってくれます。4年に一度、オリンピックのマークに見られる様に、地球上の4つの大陸を、全て網羅する空輸飛行が、私にも経験出来き、意外にも、それが早期に実現するかも知れませんが、しかし、実際問題としては、なかなか大変な大掛かりな夢の実現の様で、決して、簡単では有りません。直ぐに行けそうだった夢のアフリカ行きも、その後にキャンセルされてしまい、今は、また、元の計画通りに、地道な北極圏周りの仕事に落ち着きそうな気配です。そのダスチン君も、今は、南米行きではなく、ハワイ行きの空輸飛行の途中なのでしょう。ユナイテッド航空の機長職を定年引退した祖父の所有するコンドミニアムが、ハワイに2軒も在るそうで、到着後は、しばらく、そこに滞在するそうです。

 ここで負けては成らじと、消え細るロウソクの様な気持ちに成っていた自分を、敢えて鼓舞し、自ら鞭打って、久し振りに、南米のパイロット仲間にE-メールで聞いたら、南米のヘリコプター運航会社から、最新型ヘリコプターの新規導入訓練を受託してくれないか、という連絡を受けました。業務上の大まかな注意事項を確認して、早速、該当するベテラン・ヘリコプター操縦士を、世界中から募集して、数名決定し、すぐにでも採用する作業が始まりました。たった、ひと月間の短期型の仕事ですが、今の、空輸飛行に疲れた気持ちには、多少の、リフレッシュ感も得られそうで、しばらくの期間、空輸飛行の仕事を休んででも、この訓練事業の話に乗ることにしました。というのも、空輸飛行の手配をしているビルが、私の為に、中近東行きの空輸飛行を、12月半ばに用意するというので、それまでの間、丁度良い、手頃な繋ぎの仕事だと考えたことも、私が南米の仕事を手伝う決心をした大きな理由です。

 まるで、スーパーマンの様に万能なヘリコプターの抱える欠点は、ただ一つで、それは、最大速度が致命的に限られていることです。従って、実用機としては、どうしても、140ノット前後ほどが、最大速度の限界点の様で、それ以上の速度では、頭上の大きなローターの先端が、容易に音速に近づく為に、その段階から、急速に、様々な難題が生まれて、どうしても、ヘリコプター自体の速度を、それ以上加速することが出来なく成る様です。そこで、最近、チルト・ローター機と呼ばれる、ヘリコプターと飛行機を組み合わせた様な、新しいカテゴリーの航空機が、軍用機や実用商用機として開発されました。これなら、長い滑走路も不要で、同時に、飛行機として飛ぶ区間では、大幅に最大速度を上げることが出来ますから、乗客のみならず、パイロットにとっても、大変、快適でしょう。

 幾ら、ヘリコプターの速度が飛行機と比較して遅いとは云っても、とても、地上を走る自家用車の比では有りませんが、果たして、私の未熟なヘリコプター操縦では、未だ、飛行時間も本当に少なく新米ヘリコプター操縦訓練生の身ですから、それが、今後、どの様に変身するのかは、皆様にも、今後のお楽しみの題目で、全く、不慣れなヘリコプター教育産業への初めての事業進出の体験です。その慣れないヘリコプターの操縦訓練事業に、少しの期間、精を出しても良いかな、と、勝手に、夢膨らませて、想像たくましく考えているところです。その結果は、また、詳細、この場で御報告できると思います。すぐに挫折しそうな気もしますが、当面の準備作業だけでもやって見る予定です。これが、切っ掛けと成って、将来、私が、ヘリコプターの空輸飛行にでも従事することに成ったら、案外、企画としては面白いかも知れません。今のところ、やる気だけは、一杯です。

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2008年11月23日(日)
第32報 インド人パイロットの促成昇格と、日本のお粗末パイロットさんの例

 11月14日
  嘗て、職業パイロットの華と云えば、何と言っても、定期航空会社に籍を置く最高給取りで有名だった国際線の機長様御一行、だったのでしょう。素人には良く分からない航空適性検査という名の、大変、厳しい能力検査の末に、ようやく合格出来たパイロット訓練生さえ、昔は、大変な超エリート若者の集団だったに違いありません。航大の卒業生で云うなら、創世期の第一期生から始まって、精々、12期生か、13期生辺りまでの数少ない希少価値の存在、その後昇格をして、機長に成られた人達を指すのでしょう。詳しくは、私には良く分かりませんが、皮肉にも、その後の後輩達、一連の訓練生達には、御存知の通り、残念ながら、散々な災難続きで、各エアーライン側も自社への安易な新人操縦士の採用を渋り、航大卒を一蹴、拒否し、パイロットの粗製濫造の時代が訪れたことを、全国民に発表しました。その不運な時代のトラウマから、か、今日、再び、世界的なパイロット不足が各国のエアーラインで幾ら叫ばれても、最早、航空大学校の側には、一切、訓練生の定員枠を増やす考えは、金輪際、無さそうなのです。

  従って、そうしたエリート・パイロット出身者に代表される様に、日本のエアーライン・パイロットの中には、本当に素晴らしい操縦の才能を持った天才的なパイロットが多く居たと思います。勿論、人間の世界ですから、実際には、抜け穴も幾つか有り、パイロットしては、元々、大した素質も無いのに、「人当たりが良く、彼は、人間が出来ている。」と、いうだけの理由で、最終的に、大機長にまで成った一部のパイロットも、もしかしたら、何人か、これまでには、居たのかも知れません。また、自前の強力なコネや有利な縁故関係を利用して、上手く、エリート・パイロット・コースに乗れたパイロット達も、過去には、きっと、多く居たのでしょう。日本の航空会社の側でも、膨張する拡大路線の需要の強さから、「兎も角、パイロットの免許だけでも持って居れば、誰でも良いから、採用したい。」と、考えて、半ば、強引に、新人パイロットを、安易に採用した時代も過去には多く有った様ですし、そして、また、今、その時代が、突然、40年振りに日本だけでなく、世界的な大規模で、巨大台風の様に、再来してしまったのです。

 しかし、最終的には、航空輸送の公共機関として、一般旅客の安全性が、最優先されなければならない職業なのでしょう。しかし、科学は進歩し、幸いなことに、最近のジェット旅客機の発達は著しく高度に進歩していて、ひとたび操縦席に座ると、まるで、それが手動操縦なのか、自動操縦なのかも分からないほど、画期的な、操縦の易しいジェット旅客機が大量に普及する様に成りました。私も、過去、某国際定期航空会社に所属していた関係から、仕事の引継ぎの関係で、偶然にも、そのフランス製のジェット旅客機を、実機ではなく、高性能・高精度再現シュミレーターではありましたが、3時間半以上も、自由に体験操縦した経験が有りました。その当時の私の得た感想では、本当に操縦そのものが、非常に簡単で有り、全くの初心者でも、単に、何とか飛んでいるだけのことなら、十分にパイロットらしく操縦していられそうな、驚く様な初めての、何とも容易過ぎる操縦体験だったのです。

 だからこそ、世界中の航空会社では、現在、安心して、まるで初心者にも等しい様な、新人副操縦士を、比較的、簡単に副操縦士に昇格させて、そうした進歩的な最先端の技術で完成した最新型ジェット旅客機に担当を指名し、新人副操縦士としての地位を安易に与える結果に成ったのでしょう。私が、かつて、一年前に操縦教育をしたインド人の訓練生達も、一部は、強力な親の社内での地位とコネを利用して、既に、インドの新規大航空会社の副操縦士にまで昇格してしまったそうですが、当時の彼らの訓練中の出来事をあれこれと思い出すと、私には、なかなか、最近の著しい御出世の報告のお便りを頂いても、なかなか、それが、現実だとは容易に信じられないことなのです。

 当時の訓練生、御本人達の名誉の為にも、当時のことを、一切、口外出来ない私の都合も、多々、有りますが、御本人達の為には、その後も、よくよく、しっかりとした応用飛行訓練をして昇格して欲しかったと思います。しかし、実際のところは、どうだったのでしょうか。もしかすると、もう、今更、私の心配事は、あれこれ言うには、遅過ぎる段階だったのでしょうか。遠隔地に住む 私には、よく分からない事情も、多く、インド国の航空界には有りそうです。ただ、読者の皆様の誤解を防ぐ為に、大変、人並みな褒め方では有りますが、彼らは、皆、「優秀だった。」と、だけ、一言、にんまり笑って付け加えておきたいと思います。「頑張れ、馬鹿ども。、、、」否、失礼しました。今、一度、「頑張れ、若者。」

 11月15日  ところで、最近聞くのは、VLJ という、超小型軽量ジェット機の名称です。それは、例えて説明すれば、小型ピストン式セスナ機に、小さなジェット・エンジンを換装した様な小型飛行機だと考えて頂けたら、予想イメージ造りには十分でしょう。定員は、5,6名から、精々、7,8名程度の座席だけで、比較的、簡単に遠く離れた都市間を移動出来るので、大変、便利ですし、何しろ、元々が、ジェット機ですから、その速度の物凄さでは、並み居るプロペラ機の比では有りません。これだと、さすがの、スピードだけが取り柄のF-1レース・カーでも遥かに及ばず、VLJ には、簡単に追い越されてしまいます。

 ただ、問題点は、ジェット機の割には価格も安く、簡単に所有出来るので、その操縦の難点が、今一層、強調されないと、どうしてもアマチュア・パイロットでは大きな事故を起こしてしまうという点でしょう。ジェット機には、本来、これまでのプロペラ機とは違って、パイロットがジェット機を操縦をする上では、どうしても注意すべき重要な課題が多く、例えば、米国AOPAの最新11月号で取り上げられた様に、簡単に要約しても、最低、8点ほどの特別な注意事項が有ります。

 従って、初心者やアマチュア・パイロットは、最低限度の型式移行の操縦訓練に加えて、これまでには、勉強しなかった高速空力学と共に、機体システム座学と高々度身体生理学をも、よくよく勉強する必要が有ります。しかし、日本に在る航空関係のパイロット養成訓練所では、そこまで、教育してくれるところは、未だ、有りませんし、折角の米国の専用のパイロット訓練所でも、日本人には、用語が難し過ぎて、なかなか、容易に理解出来る内容では有りません。つまり、日本の小型機界には、ジエット機の初心者に対して、完全にシステムを説明できるジェット機教育の専門家が一人も居ないのが現状です。

 昔の話ですから、もう、今と成っては、御本人も、居ませんし、公開しても、既に時効でしょうから、誰も傷付きません。遠い昔の話ですから、敢えて、紹介できますが、読者の皆様の中には、パイロット訓練生の方も居られると思いますので、これが、将来の御参考に成ればと思い、日本の間違ったジェット・パイロットの誕生例として、ここでは簡単に紹介しておきますから、何故、この様な事に成るのかを、読者の皆様には、是非、御検討頂きたい。

 実は、私が、熊本空港に居た時に、セスナ社の日本総代理店(当時の野崎産業社)から派遣されて、そこの専属テスト・パイロットを自称する、如何にも間抜けそうなパイロットが、私の案内する熊本空港のデモ・フライトにやって来ました。序に、その後も、一緒に、セスナ製の小型ジェット機で、厚木基地から出発して宇都宮基地までデモ・フライトに行き、帰路は、デモフライトの終了後に、宇都宮基地から岡南空港を経由して、高松空港まで私が、副操縦士として同乗しました。

 しかし、彼は、当然、機長である筈なのに、その小型ジェット機の機体システムを良くは知らずに、それまでの間、日本の航空局の許可を貰って、ずっと、勝手気ままな操縦をしていたらしく、私が、彼の過ちの一部を指摘して、関連する機体システムを簡単に説明、紹介したら、口アングリの驚いた顔をして自分の無知さ加減に慌てていましたが、それでも、結果的には、当時、彼が航空機による死亡事故を起こさなかったのは、日本の航空局にとっては、大変、幸運なことだったのでしょう。

 元々が、自衛隊の交通管制官の出身らしく、彼の経歴としては、航空機操縦は専門外だったらしく、特に、ジェット機操縦については、それまでに、十分な専門座学教育も受けておらず、日本の総代理店に、突然、依頼されて、仕方なく、見よう見真似の精神で、横丁の飲み屋でエアーライン人機長を集めて、聞いただけの立ち話程度のお粗末な知識を頼りに、当時、最新型のセスナ製サイテーション・ジェット機を操縦していた様ですが、これこそが、日本の小型機業界の弱点や盲点を如何にも露呈した様な恥ずかしい話なのでしょう、全く、誰が聞いても驚く様な破天荒な?末なのです。その後、彼が無謀に飛んでいたジエット機が読売新聞社に納入された頃に成ってから、ようやく、初めて、彼は、ジェット機の機体システムを勉強し始め、航空局の実地試験を、何とか受験する気持ちに成った様なのですが、それでは遅過ぎます。

 御想像の通り、ジェット・エンジンは、元々、高出力・高馬力を誇る優れたエンジンなので、当然、ジェット機自体の機体重量も大きく成ります。そこが、弱小、ひ弱なプロペラ機とは、基本的に異なる点です。元々の発生するパワーが強力だから、燃料消費量も大量に消費します。つまり、最大離陸重量と、最大着陸重量の差は大きく、ジェット・パイロットは、その都度、エンジン・パワーの余裕マ−ジン(余剰馬力)が無くなる危険な離着陸時に限り、特に、詳細にその時の機体重量を正しく計算しなければ成りません。機長、本人が出来なければ、昔は、航空機関士が、専門的に担当して詳細な機体重量をいちいち計算して、最後に、乗員全員で読み上げて離着陸前に再確認をしていました。

 ところが、この、間抜けなパイロットは、最初からその辺りの道理が分からないから、その重要な計算作業もせず、と言うより、飛行中に余裕が無いから、詳細なその計算が機上でいちいち出来ず、そこで彼也の対策を考えたのか、最初から計算作業を諦めて、パンフレット・カタログに書かれた最大重量値を、常時、そのまま使っていたらしいのです。そして、いよいよ離陸前に成ると、私が読み上げる操作手順書通りに、いちいち機器を適確に操作出来ないから、私に対して、「そちらで、勝手に操作してくれ。」と、頼み出しました。要するに、その時点迄に、既に、合計70時間も、そのジェット機で飛んでいても、未だに、操縦席の操作に慣れていないから、彼は、基本操作すらも、未だ、適確に実施出来ない状態だったのです。

 そうして、いよいよ、晴天の宇都宮自衛隊飛行場に進入する番に成ったら、地上で待ち受ける大衆を意識してか、本人が緊張し過ぎているのか、ジェット機のスピード・コントロールが出来ないから、速度が、相当、速過ぎます。フラップを、完全に最大位置まで下ろしても、その状態で、未だ、20ノット以上も目標値を越えて速度は、速過ぎますから、暴走気味です。しかも、パンフレットの最大重量時の速度をそのまま使っているから、実際には、30ノットから、35ノットのオーバー・スピードなのでしょう。

 「もう、アンタ、止めなさい。」と、私は、云いたいところです。それでも、何とか暴走気味な着陸を実際に終えると、今度は、後部座席から操縦席を見に来た総代理店の部長に対しては、媚びる様に、「大勢の観衆の前で、最短着陸能力を見せたかった。」と、云うから、何と、云うことだけは一人前の機長の発言を引用していた様です。私は、思わず、「こんな、お粗末なパイロットは、全日空を始め、何処の航空会社にも、一人も居ませんよ。」と、さすがに言いたかったのですが、しかし、余りにも馬鹿馬鹿しく、黙って見て、最後まで笑っていました。

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2008年11月16日(日)
第31報 米軍と自衛隊の戦闘能力の違い

 11月1日
 日本の自衛隊は、現行日本国憲法に定める通り、「自国防御に徹した平和主義の自衛隊だから良い。」とも、我々、国民の立場では率直に言えます。日本が過剰な軍備をしたり、火器装備の目的が、現憲法の精神を離れて、防御的な自衛隊ではなく、それが、文字通り、他国への攻撃的な軍隊に変化したら、やはり、アジア州を中心として、世界的、国際的には大きな懸念事項となるのでしょう。

 私の同級生が、防大を卒業して、将校として勤めた定年までの長年、戦闘機のパイロットを務めて、数年前に定年を迎えた時、パイロットとしての飛行時間が、総合計でも、たった、3,000時間だったそうですから、米軍パイロットなら、米国空軍や海軍の中では、5年目か、遅くとも6年目くらいの、恐らく、軍隊の職場にようやく慣れた初心者と同等程度の飛行経験としての段階のパイロットに過ぎないのでしょう。我々民間人パイロットの立場から考えても、総飛行時間が3000時間というのは、職業パイロットとしては、あまりにもお粗末な程、少ない飛行経験と言えそうで、その中身が更に心配です。

 その比較例では、例えば、米国では、米国軍隊のパイロットが早期引退して、民間エアーラインに転職して、副操縦士として入社して来るケースを紹介すると、大抵、40歳くらいの若さでも、既に、15、000飛行時間から、飛行時間の多い退役軍人のパイロットなら、30,000飛行時間ほどのパイロットとしての超豊富な飛行経験を持っているのが普通です。しかも、米軍パイロットなら、大抵、世界中の米軍基地を、何回も回って、世界中の各米軍基地の様子を十分に知っていますから、エアーラインに転職して、国際路線でいきなり飛ぶ場合でも、経験上は、何の抵抗も有りません。その航空経歴の凄さは、とても、日本国内で考える、自衛隊の割愛パイロット等の比どころではありません。

 現行の日本国の自衛隊予算の使い方では、最新型の戦闘機だけは、他国に先駆けて、積極的に高額な機種を選んで持ちたがるのですが、その最新型戦闘機を実際に飛ばせる為の、運用予算の方が、最初から予算として計上されていないのか、それとも、戦闘機は、元々、単なる飾り物で良い、と、日本の役人達が割り切って考えているのか、結果的には、どうしても、日本流の予算枠で限られるのか、最新型戦闘機のパイロットが、その優れた戦闘機を飛ばせる運用技術が、日本の自衛隊に限り、残念ながら無さそうです。しかし、それはそれとして、平和的で、反って、国民の立場からは、安心出来て、良さそうなので、個人的には賛成です。

 ただ、唯一、残念なケースとして思い出すのは、雄鷹山の日航機墜落事件の場でも、「夜間に山岳地にヘリコプターを近づけるのは、難しく危険だから、墜落後の人命救助を翌朝に待って、仕方なく実施した。」と、いう、当時の自衛隊制服組のお粗末な弁解も、決して、航空界の笑い事ではなく、案外、国会の新機種予算の計上説明会とは違って、実際の高性能ヘリコプターの運航には、自衛隊自身も、最初から運用予算が無い為に、日頃から、高性能ヘリコプターの運航経験に乏しく、民間旅客の救助に必要な技量的な自信が、多分、最初から日本の自衛隊側には、まったく無かったのでしょう。そうで無ければ、あの航空機事故で亡くなった人たちの魂が、少しも浮かばれません。

 また、陸上自衛隊でも、一人の自衛官が、一生で発射する銃の弾丸の総数が、米軍兵士が、各訓練の演習時に、たった一日で消費する総弾丸の数と、ほぼ、同数だそうですから、とても、自衛隊の隊員と、米国兵士の火器の取り扱いの経験を同じ様に考えては成らないと思います。「どうせ、戦争は起きないから、平和な日本の自衛隊が、無駄に弾丸を浪費して、わざわざ銃撃の経験を多く積む必要も無い。」のでしょうから、高納税に苦しむ国民には、これは、反って、有り難い話です。もっとも、自衛隊の持ち物や装備品は、重要な火器類を含めて、最初から単なる飾り物だ、と国民全員が考えていれば、そうした経費節減の根拠も、十分に理解出来るのでしょう。

11月2日
 飛行機と船とは、運用技術から何から、全く、良く似ていて、まるで親戚関係の様に密接です。地球上に飛行機が登場した時から、飛行機に関わる多くの新たな知識が、歴史の長い船の分野から、積極的に引用され、説得性を持って使用されて来たことは、双方の歴史が示すようにその通りなのでしょう。

 一般的に、帆走用の船の帆には、大きく分けると、横に長い、ずんぐりと幅広い帆と、縦長のスマートな近代的な帆の、見た目で分かる、二通りの帆が有ります。その役目は、御想像の通り、少しだけ違っていて、横に広い帆は、自然の風に寄る抵抗力を利用して帆船を動かして舟の推進力を得ますから、残念ながら、自然風の速さよりは速く船が進めませんが、しかし、驚くことに、縦長のスマートな形の帆の場合は、力学的には、異なったベクトルの合力として、結果的に船の推進力を得ますから、場合によっては、その時の条件によりますが、何と、船が、風の速さよりも速く帆走することが出来る様に成りました。また、縦長の帆では、時には、風上に向かって、42度位までなら、切り上がって昇ることも出来ますから、その近代的な帆の能力は、大変、優れています。大型帆走用のヨットが、向かい風に向かって切り進む様子は、如何にも、大変、爽快なものでも有ります。

 また、最初からエンジンの無いグライダーは、その帆走用のヨットに、基本的に良く似ています。元々、その流体力学的な類似点から、多くのエアーライン・パイロット達の中には、私生活の中でも、帆走用のヨットに、強い興味を示す様ですが、日本航空の某・航空機関士の方で、グライダーに関する多くの日本記録を持っておられる有名な人が居るらしく、その為なのか、日本航空の機長が、わざわざ、米国アリゾナ州まで出掛けて、グライダーの免許に挑戦している姿を、私は偶然に見たことが有ります。その時は、それなりに、簡単そうに見えるグライダーの操縦の難しさにも、幾分、悩んでおられた様子でしたが、日頃乗り慣れたジャンボ機とは、勝手が、随分、違って居たのでしょう。グライダーの飛び方の出来る達人としては、何と言っても、人間より先輩の鳥達ですから、我々が、日頃、鳥の飛び方を見ているだけでも、実に、多くのことを、パイロットなら誰でも、一度は学ばせられます。謂わば、鳥は、グライダー操縦に関しては、手本と成る優れた操縦教官の様な存在なのでしょう。

 大島渚監督の映画を、10月末から、12月初めまでトロントの有名な映画館で上映するというので、昨夜、久し振りに、私は映画を見に行って来ました。最大300名ほどの観客を収容出来る映画館でしたが、ほぼ満席状態、95パーセント以上の観客でした。ところが、「日本の夜と霧」というタイトルは、欧米では、余りにも、大袈裟過ぎて、少し、不釣合いなほど、貧弱に見える映画の内容でした。感心するのは、90パーセントが白人で、東洋人は、私を含めて、ホンの数えるほど、残りは、その他の人種でした。

 多分、観衆の多くは、カナダ人でしょう。その、面白くもない映画の内容を、最後までジッと見ている観客の姿は、日本で目にする飽きっぽい日本人観衆とは全く違います。また、幾ら、難しい日本語を映画の中で役者が使っても、それが、一旦、英語の表現に訳されると、実に簡単な日常英語に置き換えられますから、我々には、昔の学生の使うイデオロギーの固まりの様な、難解な日本語でも、英語に置き換えると、ただの日常語の会話程度のレベルに置き換えられますから、映画の中で、役者の偉ぶった、異常に高慢な態度が、反って、欧米では、滑稽にすら見えてしまいます。

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2008年11月9日(日)
第30報 昔を懐かしめば

 10月29日
 昔、全日空時代に、私が修理計画を担当していたAPUと呼ばれる航空機用の補助エンジンが、相次いで不思議な全損事故を起こす不具合がありました。当時エンジンの修理費用まで管理していた私は、その不審な多発事故の原因を技術部の専門担当者と一緒に調べるうちに、その技術部の見解とは違って、私には、それが、丸ごと一体構造化した為に、無理な内部応力によるひび割れ現象と考えました。そして、製造メーカー側の初歩的な設計ミスだと分かって来たので、たまたま来日した製造メーカーの副社長であるティ氏に、表敬会合の場で、直接、本人に抗議したら、何と、そのクレームが意外にも簡単に認められ、(つまり相手は最初から、一連の多発事故の原因を知っていたことに成ります)修理に要した1億円の損害額を認めて、しかも、全額を弁償して呉れることに成りました。しかし、その後、直属の私の上司は配下の他の管理職と相談をして、私を現職から追い払うことを考えたらしく、建前は御褒美ということでしたが、実際には、私を現職から追っ払う為に、「日本全国、何処でも希望通りに転勤出来る。」という私にとっては願ってもない好条件が、即、提示されたのです。

 既に、以前から、会社全体で、そうした、部下の手柄を上司が勝手に独り占めするという上司達の姿勢に対して、程々、愛想を尽かしていた私は、即座に、私の出身地の在る宮崎県に最も近い赴任地として、熊本乗員訓練所を転勤先に選び希望しました。そうしたら、その私の転勤の希望は、驚くほど直ぐに認められて、予定通りに私は転勤の辞令を受け取ると、バタバタと忙しくも、楽しい様な、初めてのサラリーマンの転勤・転居生活を体験したのでした。

 しかし、転勤早々に、私がセスナ社の日本に於ける総代理店であった当時の野崎産業から、サイテイーション5型という小型ジェット機を、熊本空港に呼んで、並み居る操縦天才揃いの応用訓練の教官達に小型ジェット機のデモ・フライトをして貰ったのです。そうしたら、私が赴任早々に会った新・上司は、「一体、何事が起きたのか。」と驚き、全日空にとっては、せっかくの精鋭機のシャイアン3A型機までもが、まるで霞みそうな、その小型ジェット機の優雅なデモ飛行事件で、すっかり、オカンムリの顔でした。

 いざ、家族と共に一家総員で熊本空港に到着すると、地元には幾つかの飛行クラブがありまして、私は、その中でも、最も高性能な350馬力の6人乗りのセスナ機を持つ福岡のH開業医師を中心とする飛行クラブに加入しました。また、一方で、当時は、アマチュア界でも、既に、全国的規模で有名に成っていた岡村五郎さんや、熊本の英雄パイロットの荒木勇一さんも、大変、お元気で、一緒に都城市主催のエアーショーや、新たに立ち上げたスーパーウィング飛行隊として、編隊飛行の演技の為に、遠く鹿児島県の南西端、枕崎市営飛行場まで出掛けたものでした。

 一方、全日空でも、当時、新規購入したパイパー社製シャイアン3A型ターボプロップ訓練機4機を揃えて、新人副操縦士の為に応用訓練を全国各地に飛ばせて実施していましたから、そこで、私の担当した業務は、そのシャイアン機の応用訓練飛行におけるデスパッチャーの様な運航管理の仕事が中心でした。更に、最終的には、5機の実機と共に、2台の高性能最高精密シュミレーターを購入していましたから、私も、時々、担当する愛航メンテナンス社の技術者に頼んでは、自分の計器飛行の訓練にもシュミレーターを利用させて頂きました。お蔭様で、私の操縦技量の方も、本コースの副操縦士に負けず劣らず、その頃は、みるみる効果的に計器飛行の操縦技量が伸びていました。それは、私のパイロット人生の中では、確かに、他に比較も出来ないくらいに、大変、有意義な1年間だったに違いないだろう、と思います。

10月30日
 今回のウクライナ国までのフェリー飛行では、好評だったディーゼル・エンジンを搭載したセスナ機でしたが、イカルッアット空港で渡された機体の整備状態が余りに悪かった為、その改善整備の指示をしておき、その整備が行われる間、10月9日から23日まで、私は、グリーンランド島のカンガルースアックで待つことにしました。グリーンランド島での長期滞在は、今年2月に3週間以上滞在して以来、今回で、2度目に成りました。

 グリーンランド島では、11月19日には、原住民を中心とした全島民に寄る一斉選挙で、新たな国として、今後、デンマーク国から独立をするのかどうかの基本方針を決めるのだそうです。そう成れば、多分、住民の説明では、10年以内には、日本人やモンゴル人と同じ、蒙古斑点を持つ非常に近い人種による3つ目の国家が地球上に誕生することに成ります。もしかしたら、グリーンランド人は、我々、日本人の遠い親戚かも知れません。

 そう云えば、10月12日、日曜日は、グリーンランド島、カンガルースアック町で、地元のアルバトロス旅行社の主催により、一部のコースは、氷河地域にも及ぶ一大マラソン大会が行われました。遠く、デンマーク本国からも参加者が集まり、合計100名以上が、参加しましたから、町の人口は、突然、2割ほども増加しました。時には、50センチほどの深みの雪の中のコースも走り、結果、第一位のマラソン記録は、3時間30分だったそうですから、雪道のコースでは、大変な好記録だった様です。読者の中で、特に、自信の有る方は、是非とも、来年は、日本からも出掛けて行って、グリーンランド島での、このマラソン大会に挑戦して見てください。

10月31日
 与圧式客室を持つセスナ製最高級P210型ピストン単発機を、デンマーク国のロスキルデ飛行場から南スイス国の湖畔の小さな飛行場まで届けて、その後は、ずっと、待機生活が続き、結果的には、もう、5週間以上も実機でのパイロットとして飛んでいません。しかし、頭の中では、たとえ、一日たりとも、様々な飛行局面における操縦シュミレーションでの模索作業から私が開放されることは有りません。其れが、職業パイロットとしての、普段の努力なのだろう、と、最近に成って、私は思う様に成りました。

 これまでの、過去の一つ一つの具体的な飛行体験の中で、何か一つでも、自分の反省出来る点を探し出し、いつでも、その解決策を絶えず進んで追い求めることこそが、今後の、より良い飛行技術を見つけ出す、何らかのヒントに成れば良いと常々から希望しています。自分の過去の飛行経験の中から、多くの先輩パイロットや、時には操縦教員が示してくれた素晴らしいテクニックを頭の中で、一つ一つ再生して見て、振り返って思い出す時、一日も早く、そうした、先輩方の持っていた最高度の操縦レベルに近づきたいという気持ちは、極、自然に、一層強まるものです。

 ホンの少しだけ、私とて、過去の飛行の一部を振り返って思い出すだけでも、先人パイロット達の、4人や5人以上の、その中でも、最も尊敬する先輩パイロット達の模範的な操縦技術は、いつでも、私の脳裏から消え去ることは無く、常に、より良いパイロットとしての道標と成って、今日の職業パイロットとしての新しい私を導き、支えてくれていることには、今更、何の疑いも有りません。

 私の仲良しグループの一人、ダスチン君は、今回、パイパー製単発機で、テキサス州からコロンビア国の首都、ボゴタ市行きだそうです。途中は、メキシコから中南米経由なのか、それとも、カリブ海経由なのか。「カリブ海経由なら、担当を、代わっても良いよ。」と、私は返事を書きました。

 ダスチン君の話では、当初、アフリカ行きを私に指名されていた高性能T210型セスナ機は、新たに、担当パイロットが、別途、指名されて、カナダの東端、セント・ジョーンズ空港まで行ったら、其処で、何と、何と、担当パイロットが洋上飛行を拒否し、飛行機をその場に放置して、サッサと自分の故郷に帰ってしまったそうです。

 そこで、ダスチン君の早速の予想ですが、「松。ウクライナの次は、やっぱり、アフリカ行きに決定だね。」と、連絡して来ました。私にとっては、延び延びの、憧れのアフリカ行きですが、読者の皆様で、アフリカ行きを希望される人が居たら、是非、ポルトガル辺りで、待って居てください。そこから、南アフリカまで、3日間の旅、便乗させますよ。いやいや、間に合わないかな。

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2008年11月2日(日)
第29報 007は、果たして二度生きるのか、それとも二度死ぬ、のか

10月24日
 日本を離れて、海外で活動していると、様々に、不思議な人に出会い、時には、其処で、信じられない様な体験にも出会うものです。例えば、秘密警察とか、インターポリスと呼ばれる外国の警察官に会ったことが、私はこれまで、過去、二度有りますが、しかし、相手の身分証明書をこの目で見た訳では有りませんから、正確にその状況を述べれば、「私は、秘密警察らしい人達に会った、ことが有る。」と、言うことに成りそうです。まあ、いちいち、身分証明書を相手に提示する秘密警察という存在もないでしょう。

 一人は、インター・ポリスという国際警察機構に所属するスペイン人警察官で、場所は、モンゴル国のウランバートル市で会いました。当時の彼の説明によれば、中国のアキレス腱は、大きく分けると3つ有り、一つが、結果的に2分割された対・内外モンゴル国問題、次が、西部中国砂漠地区に於ける中東イスラム教文化の問題、そして、最後は、既に今日では、その後、現実化してしまったチベット国の独立問題です。この、3つの中国国内の問題を、米国が精々利用して、急速に膨張・巨大化する中国の政治・経済力を、徐々に弱体化させたいというのが、悪名高い米国CIAの陰謀するところらしく、その現地調査の為に、遥々スペイン国からやって来たらしいのです。その、予言通りに、翌年(昨年)には、米国CIAが、ウランバートル市内の某高級ホテルを、半年間以上も丸ごと貸し切って、長期滞在していたそうですから、満更の冗談ではとても済まされそうに有りません。

 もう一人は、アフガニスタン国のカブール市で活動するフイリッピン人の女性秘密警察官ですが、夫がアメリカ人で、共に、当時、アフガニスタン国勤務だったそうですが、偶然に私と会ったのは、フイリッピンの首都、マニラ市内で、その時は、たまたま、大きなお腹を抱えて、自分の出産の為に帰国していたそうです。その女性秘密警察から聞いた話は、麻薬の国際間密輸問題でフイリッピン国が追い詰められており、概ね、日本の税関に対する厳しい苦情です。驚くことに、北朝鮮からの麻薬が、日本国を堂々と素通りして、それが、フイリッピン国内に密輸されているというものです。フイリッピン国内で、密輸された麻薬の現場には、多くのケースで、大豪邸の隣の倉庫の中に、日本製の新型オートバイが、多数、発見されており、北朝鮮から送られた麻薬がその新型オートバイの中に隠されて、日本経由でフイリッピンに多く到着していたそうです。

  「一体、日本の税関は、日本国内で、何をしているのか。」と、声高々に私に迫る彼女の腹立たしさが、特に、印象的でした。結果的に、フイリッピン国では、どうしても防止出来ない麻薬密輸問題の末端での解決の為に、政府一丸と成り、強硬手段に踏み切り、単なる密告だけで、白昼堂々、麻薬密売人の銃殺による暗殺を十分な証拠も無しに行ってしまっているという、実に恐ろしい様な人権侵害問題の現実を抱えてしまったという難題です。その後、この状況が、フィリッピン国内における人権無視問題として国連の場で、各国に追求される事態に発展した為に、フイリッピン政府も、困っているそうですが、その元々の原因が、日本国の税関関係者の北朝鮮からの密輸品の手抜き検査に有るのではないか、というフイリッピン警察官としての苦言です。彼女は、「本当に、日本の税関は、きちんと貨物の検査をしているのか。もしかして、故意に、北朝鮮からの貨物を手抜きをする事情が、何か、日本政府の側に有るのではないのか。フイリッピン側から、この問題の解決の申し出をしても、過去、日本国政府側から、「誠意有る回答が得られなかった。」と、嘆く様に、私に対して苦言を呈しました。

 それにしても、本当に、こういう国際問題が現実に両国間で有るのなら、どうして、日本の各新聞やテレビ各局で、日常的に、日本国内だけは放映されないのかと、私にとっては、本当に不思議な話でした。こういうところから国際間で、両国国民レベルでの誤解や相互不信が生まれる原因と成るのでしょう。

 主人公、ジェエームズ・ボンドが演じる「007」シリーズの日本を舞台としたタイトル名は、確か、「Live Twice」でしたが、この映画の日本語での翻訳タイトル名は、「007は、2度死ぬ。」でした。しかし、「待てよ。」と、私は思って、英国人の某・知恵袋に最近に成って聞いたところ、英国での正しいニュアンスは、007は、「2度生かされた。」と、いう意味なんだそうです。つまり、「007は一度死んでしまったが、新たな指令の為に、もう一度、生き返って、次の使命を果たしてくれ。」と、いう責任者、「M」氏の強い気持ちを込めた意味の様です。しかし、別に、「寝た子」を起こした訳では有りません。言い換えると、「Live Twice」は、「007の再就職」の様なものでしょうから、今なら、中高年の私にも、当時の、007の事情が、身を持って、良く分かります。

平成20年10月25日
 世界最高のアマチュア・パイロットは、誰か?と聞かれたら、ゴルフ界の帝王だったアーノルド・パーマー氏は、既に、航空会社を経営しており、第一線のプロ・パイロットに転向しているので、それは、現在、多分、米国男優の、ジョン・トラポルタ氏、だろう、と私は思います。彼は、過去には、ボーイングB707型4発旅客機を自在に世界中で乗り回し、一方では、マッハ1.7でも飛べる高速戦闘機も持っていて、度々、フロリダ州からニューヨーク市まで、単に、夕食の為だけに出掛けて利用していた様ですし、今日では、ボーイングB747-400 型ジャンボ・ジエット機の型式操縦免許まで所持して、第一級の機長資格を持っていますから、世界中の多くの一流プロ操縦士でも、彼の数多い飛行経験の前では、真っ青に成るでしょう。

 その、米国男優の、ジョン・トラポルタ氏が、十五年くらい前、米国テキサス州でガルフストリーム製・高級ビジネス・ジエット機の操縦免許を取得した際の操縦教官というのが、実は、私が、リヤ・ジエット機の型式操縦免許を米国で取得した時の同じ操縦教官ですから、その当時なら、私も、その米国男優、ジョン・トラポルタ氏と並ぶ、ほぼ同じ様なレベルにいたのでしょうか。運悪く、その後に、どういう訳か、両者には、大きく、パイロットとしての経歴に大きな違いが出てしまった様で、思い出せば、その後、十分に活躍出来なかった私にとっては、大変、残念な比較結果だったのでしょう。

平成20年10月25日 
 「パイロット」という言葉の意味は、本来的には、元々、道先案内人や先導者という意味が有ったのでしょう。その意味では、運転士とか、操縦士、というよりも、むしろ、航海士、とか、航空士、という意味に近いのかも知れません。また、近年の農業分野では、しばしば、農業に於ける「パイロット事業」という言葉を使いますから、一歩先を行く、進歩的な農業開拓の新規計画事業を指し示すのかも知れません。

 一方、航空航法技術では、Pilot という用語に良く似た別の用語では、Pilotage と云い、地文航法のことを指し示しますが、これは、パイロットが、操縦席から、地上の地形を見ながら自機の現在位置を確認して、その後の進むべき進路を探し出す、謂わば、手探り状態で進路を探しながら飛行機を目的地に到着させる航法技術のことを云います。

 このPilotage という航法用語と、農業分野における「パイロット事業」という言葉を結び付けると、農業分野における「パイロット事業」という用語も、もしかしたら、案外、「手探り的な新事業・新規計画の発見に努めている。」と、いう元々のニュアンスが、多少、有るのかも知れません。しかし、歴史的には、多分、航空用語としての「パイロット」という言葉と、日本の農業分野における「パイロット事業」という用語を関連付けて説明してくれた学者が一人も居ない為に、今回、ここでの、初めての試みなので、実のところ、私にも詳しいことは良く分かりません。是非、どなたか、農業に詳しい人が居られたら、今後、機会を得て、説明して頂きたいものです。

 また、長い歴史を持つ船の航海技術では、水先案内人という意味が有りますから、地図も充分に無かった時代に、未知の航海に出掛ける場合に、経験豊富な水先案内人のことを示していたのでしょう。そこから始まって、今日では、大きな港で活躍する巨大な旅客船を引くタグボートの船長のことを、「パイロット」と云う様に成ったそうです。超大型クルーズ客船が各国の代表的な港に入港すると、その客船の操舵ブリッジに、いきなり乗り込んで来て、担当する客船の操舵士に、着岸の為の詳細な指示をするのだそうです。大型客船の船員にとっては、何とも、頼もしい存在なのでしょう。

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2008年10月19日(日)
28.第一線パイロットの想像をも越える長距離飛行を実現
9月22日
 アイスランド航空管制に、前方の雲団を越える為に、より高い高度を求めたら、すぐに許可された。しかし、そこから伝えられたバーガー空港の天候は本当に良くない。まだ、朝からの深い霧が晴れていないらしい。どうも、着陸は予想以上に難しくなりそうだ。それなら、いっそのこと、バーガー空港に着陸をせず、このまま、折角のこの飛行を、更にずっと継続できないものか、と、私は考え始めた。そこで、試しに、このまま実現可能な、今回の飛行の最大航続距離の詳細な計算を始めて見た。

 「あれ、れ。」と、思った。何と、計算上は、このまま今日の最終目的地のデンマーク国コペンヘーゲン市の裏側、ロスキルデ空港まで、ギリギリ行けるかも知れないと、いう、驚く様な、計算結果が出たのである。「そんな筈は無い。」何しろ、依頼主であるベテラン・パイロットさえ、精々飛べても、この飛行機は、「最大限度700海里しか飛べない。」と言い切っていたのだ。多分、依頼主は、この飛行機の翼端に補助燃料タンクが有ることを知らなかったのだろう。しかし、もし、万が一、依頼主が、補助燃料タンクが有ることを知っていて、その上で、そう云っていたのなら、私の計算が、完全に間違っていることになる。それで、私は、何度も、何度も、最初から計算を繰り返したが、その結果は、デンマーク東部まで、何とか、このまま飛べそうなのである。

 もし、途中で、燃料が枯渇したら、どうなるのだろうか・・・いや、多分、その時点では、もう、洋上区間ではないだろう。だから、その位置は、洋上区間を過ぎて、多分、ノルウエイ国領土からデンマーク国領土の近くの間の空域だろう。その場合なら、燃料が無くなる直前に、航空管制に連絡を取って、近くの空港に、直ぐに着陸出来るだろう。幸いにも、本日は、北ヨーロッパ地域の天候は、大変恵まれて、良い様だ。私は、一旦、「よし。」と、決断をすると、アイスランド航空管制に、目的空港の変更を願い出た。「こちら、N911 号、目的地変更を願う。」、何と、私の機番は、最近良く聞く、“911”だから、アイスランド空港管制は、迷わずに、直ぐに返答をしてくれる。私が、具体的な用件を伝えると、「こちらアイスランド航空管制、N911号、了解した。しばらく待て、目的地変更をこちらで調整して見る。」

 とは、云うものも、私も、正直なところ、本当に、デンマーク東部まで行き着けるのかと、相変わらず、半信半疑なのである。「本当に、私の計算は正しいのだろうか。」と、航空管制官の行う調整作業の結果を、ジッと待っている間も、あれこれと、余計なことまでも考えてしまう。やがて、30分ほどしたのだろうか、突然、アイスランド航空管制から、先ほどの返事が着た、「N911号。こちら、アイスランド航空管制。貴機の目的地変更を許可する。直ぐに、ノルウエイ航空管制と連絡を取れ。」と、云う。「なる程、もう、ノルウエイ航空管制の領域に近いのか。」と、待ち時間が長く感じられたが、そこで一呼吸して、ノルウエイ航空管制に最初の連絡を取ると、「N911号。こちらノルウエイ航空管制。こんにちわ。」と、挨拶の後、即座に、「N911号。目的地に進路を定めよ。全行程の直行を許可する。」

 「え、エツ。そんな馬鹿な。」と、私は驚いた。デンマーク東部の目的空港までは、まだ、700海里(1,260キロ)もある。こんな所から、本当に、直行飛行をしても良いのだろうか。まるで嘘の様な航空管制官の対応である。「こんな遠い所から直行飛行をして、一体、他の航空機には、一切、支障が出ないのだろうか。」と、考えたが、しかし、そうすると、何と、私は、目的地に到達出来る可能性が十分に高まった、ということになる。これは、何と有難いことなのだろうか。これなら、到達出来る可能性は、7割になったのだろうか、それとも、8割になったのだろうか。イヤイヤ、喜んではいられない、今後は、残り2割か、3割かの実現不可能な場合だって、十分に考慮しておく必要が有るだろう。もう一度、最初から最大航続距離の計算をして見よう。

 そして、第二番目の着陸地である、ノルウエイ国のスタバンガー空港を左に見ながら通り過ぎると、さすがに、私は、少しずつ、主翼内の残燃料が、本格的に気になって来たのである。私は、最も効率良く飛行機を飛ばす為の様々な工夫を、何度も考えては、それを実行して見た。「本当にデンマーク東部まで飛べるのだろうか。それは、依頼主の想像を越える、合計、1,200海里にもなるのである。」と、心配の余り、何度も何度も、私は、燃料の計算をして確認をした。確かに、何とか成りそうなのだが、しかし、空港への進入中にレーダー管制で、あちこちと引き回されたら、燃料は直ぐに枯渇し、大変な事態になる。「今回、目的地のロスキルデ空港へ、果たして、すんなりと、着陸させて貰えるのだろうか。」と、最後の心配事が有る。

 やがて、ロスキルデ空港まで、残り100海里と成った。もう、燃料は、僅かだ。残り50分の燃料だろうか。そして、あと残り75海里、残り45分間の燃料は無さそうだ。更に、残り50海里。着陸のやり直しは危険だろう。すると、航空管制が、進入管制に代わった。「N911号。無線局から、南東に飛べ。そして、滑走路に向かって、計器進入を行え。信号に乗ったら、報告せよ。」と、云われたのは、残り、15海里の距離だった。やっと、夕闇の始まる前の頃、目的地空港の進入灯が、様々な明かりと共に見えて来た。まだ、外は、明るい。世界時間は、18時前だが、デンマークは、午後20時前だ。「N911号。着陸を許可する。そのまま、東に向かって滑走路に着陸せよ。」「ロスキルデ空港管制、有難う。N911号。車輪の確認を行ったので、指示に従い、今、着陸を行う。」

 そして、修理を終えていた3箇所の車輪は見事に機体を支えてくれ、滑走路への着陸を果たした。駐機場へ行く間も、残燃料量は、まだ、気になる。多分、バケツ一杯分の燃料しか残っていない筈である。荷物をまとめて、空港事務所に向かうと、待ち受けたのは、皆顔見知りで、いつもの親切な空港職員達だった。いつもの担当者が、「タクシーも呼んだし、ホテルもいつもの高級ホテルだ。疲れたでしょう。今夜は、ゆっくり休みなさい。明日は、何時に出発する?」と、聞いてくれるので、「多分、お昼時になると思う。」と、私は、笑いながら、笑顔で職員に答えた。空港ロビーの外でしばらく待っていると、間もなく市内から大型ベンツ製タクシーが迎えにやって来た。そして、タクシーに乗り込み、鉄道駅の前を通って、いつもの中庭の有る清潔そうなホテルに着いた。中庭側の玄関から中に入ると、地元の通関業者が手配したホテルのチェック・インは、極、簡単だった。

 しかし、驚いた空輸飛行の依頼者から、次々に、E-メールで、質問が届く、「どうして、700海里しか飛べない飛行機が、1,200海里も飛べるのか。信じられないが、しかし、現実は疑えない。」と、云うもので、何度も、何度も、返事を書いて答えたら、「電話で話したい。」とも、興奮した様で、ホテルの電話番号を聞いて来る。ついに、私は、21時までの夕食のチャンスを逃してしまった。そして、間もなく、「まったく、驚いた。」と、わざわざ、ホテルに会いに来た通関業者と、30分間ほど面会した。その後、自分の部屋に入り、机の上に荷物を置いて、そのままベッドの上に横になった。その時、改めて、「助かった。」と、ホッと溜息を吐いた。

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<コメント>
 「脚が格納できない」、「エンジンオイル温度異常」という重大トラブルのある機体を、大ベテランのパイロットに頼まれて引き継いだ今回のフライトは、ただでさえ緊張する所を、更に途中で飛行計画を変更し、第一線パイロットも想定しない、長距離飛行をも実現しました。これを成し得たのは、「ただがむしゃら」ではなく「細心にして、大胆に決断する」寺原君の性格によるものと感服した次第です。 (澤井孝雄)

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2008年10月12日(日)
27.変な日本語喋るアイスランド国の整備士さん(続)
9月22日
 昨夕は、宿泊先の高級ホテルから15分ほど繁華街に向かって歩いた。地元では、大変有名なロブスター・ハウスで、思いっ切り、ロブスターを食べ様かと考えて、お店に入ったら、高額なメニューの価格一覧を見て驚き、ついに、ロブスターのスープだけを頼んだ。それでも、ビール一杯を含んで、何と、何と、スープ一杯に4千円は取られた。幾ら、新親方は支払ってくれるとは云え、元々貧乏性の私には、そのショックは大きい。しかし、確かに、その驚きの中でも、多少は美味しかった。帰りに、もう一度、近所の立ち寿司屋さんで、握り鮨一人前を食べてから、小雨の降る中、ノコノコ歩いて、ホテルに帰った。

 翌朝も、心配していた通り、小雨模様の天気の中で目が覚め、そして、ドンヨリした雲の下、窓の外を見ながら、ようやく、決断をして起きた。朝食時間帯は過ぎていたので、直ぐに、大型タクシーを呼んでもらい、国内空港のFBO事務所に向かった。ICE FBO に呼ばれて社長の部屋に入ると、秘書が隣に座っていて、 何と、未だ今回の整備費用が支払われていないから、私は、出発できない、と言われた。そこで、一旦、私のFBO事務所に戻り、そこから、米国とスイス国に向かって連絡を入れ、直ぐに整備費用を支払う様に頼んだら、それから、僅か15分ほどで、その大金の支払いは完了した。

 駐機場の中も、雨で水溜りができ、小雨の中を何機か在るビジネス・ジエット機の脇を通って、遠くに駐機した私の飛行機に向って歩くのも、大変なことであるが、それが仕事となれば、そんな不満も云っておられない。そこで、私は、出発したジエット機の跡を見つけて、自分の飛行機のエンジンを始動して、事務所の近くのその場所に機体を移動した。これなら、作業もやり易いし、エンジン油も必要なだけ温まってくれた。

 一様の手順に従って出発準備を終えて、飛行計画を提出すると、それも順調に受理されたらしい。いよいよ出発だが、何しろ、車輪が引っ込まなかった飛行機だ。引っ込まないのは良いとしても、もし、車輪が出て来なかったら、事故は避けられない。良くても重症だろう、それは、相当に痛いに違いない。しかし、変な日本語のアイスランド人は、「何度も、作動テストをして、問題なく作動出来た。」と、云っていたから、今回は、変な日本語を信じることにした。もし、離陸後に、車輪に不具合か、何か、問題が起きたら、一旦、出発地に引き返し、あるだけ全部の燃料を使って空中待機をして、その上で、対策を考えよう。

 小雨模様の続く中、上空の雨雲も低く垂れ込め、こんなに天候が悪いのに、それでも、地元の元気なパイロット訓練生達の飛行訓練は始まっていた。私には、驚きであるが、それも反って、私の出発には、むしろ心強い。国内線の管制塔は、直ぐに、飛行承認と離陸許可を私の飛行機に対して出しくれた。天候も悪く、近くを飛んでいる飛行機も、あまりないから、簡単に離陸許可は出る様だ。それにしても、ぎっしりと、計器や電子機器が並び、何と煩雑な計器版の上なのだろうか、と、再度、溜息交じりに感心をする。

 高速で回転するエンジン音は、好調だが、離陸直後からエンジン油温が高い、いや、異常に高い。シリンダー温度も異常に高い。上昇中に、直ぐ、後で分かったが、何と、排気温まで高かった。そこで、何とかして、エンジン全体を冷やしながら、目的地まで飛び続けることにしたい。その為には、エンジンは高速で回して、その分、オイル流量を増やす為に、オイル・ポンプを最大限度に利用するように、毎分500回転ほど、余計に回転速度を高めることにした。次に、ミックスチャー・コントロール・ノブを、やや燃料を多めに増やして、濃厚な空燃比に戻しておき、そして、カウル・フラップも完全に閉じず、ある程度の新鮮な空気流をエンジン部に確保しておいた。

 運良く、心配していた車輪は、離陸後、直ぐに、3箇所とも上手く格納出来た様だ。更に、主翼下面に付いた、車輪点検用ミラーを操縦席から見ると、確かに、もう、車輪は、格納されて機外には、一切、顔を出ていない。これで、車輪の問題は解決したが、しかし、「果たして、本当に、このまま、目的地空港まで、このエンジンが、正常に回転を続けることが出来るのだろうか?」と、肝心なエンジンの心配事が、残ってしまった。そして、その心配事が、一瞬、私の脳裏に小さな疑問として湧いて来た。大抵、人間の心配事は、苦境において、一旦出始まると、それが、相乗的に膨らむから、更に、その他の心配事まで次々に巻き込んで増えて行くのだろう。何とか、心理的にも、安定出来る状況になって欲しいものである。ずっとエンジン計器を眺めていた、すると、しばらくすると、少しずつだが、エンジン関係の温度計が下がって来たのである。「もしかしたら、このまま、飛行が続けられるかも知れない。」と、私は、考える様になった。

 本日、最初の着陸空港は、ファラオ諸島のバーガー空港である。出発時から、何となく、天候が悪いから、ずっと気象の変化が気になっていた。「この際、思い切って、アイスランド・無線局にその後の気象の変化を聞いて見ようか。」と、私は考えたが、少しすれば、次の定時気象通報が出る頃だろう。「それなら、いっそ、それを待って、最新の情報を得よう。」と、相変わらず、エンジン関係の計器を見回しながら、飛行機の針路に注意を払った。もう直ぐ、ファラオ諸島の空域に入るだろうから、事前に、着陸の準備も必要だろう。すると、「そろそろ忙しくなるなー。」と、飛行機を取り囲む雲の隙間を探して見た。間もなく、このドンヨリした雲からも開放されるだろうと、私は、期待していた。

 やがて、飛行機の周りの雲は、まばらになり、そして、遂に、上空の雲までが消えて無くなり、下の方に広がる、薄い雲だけが残った。これで、パイロットとしては、気持ちの上で、随分と楽になった。視界が広がることは、飛行中の様々な物を、直接、自分の目で観察することができ、大変、有難いことなのだ。高度は、15,000フィートだから、5,000メートルに満たない。そう云えば、前方に進路を塞ぐ形で、別の暗い雲の層が見えて来た。あの雲の一群を越えるには、あと、3,000フィートは、上昇しないと越えられないだろう。どうしようか。あの雲を越えるか、それとも、あの雲に突っ込むか、の選択だろう。
 (続く)

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            <非公式ニュース>
 本日、10月5日、トロント市内で、アフリカ西部トーゴー国出身の、在アメリカ・ワシントン在住の黒人男性によれば、米国東岸地区大都市では、若い黒人が集まり、警官を含む、無差別殺人があり、それを恐れて、彼は、安全なカナダ国に移住目的で、ワシントンを離れて来たそうである。米新聞で確認願う。

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            <非公式ニュース>
 今年、10月か、11月には、グリーンランド島では、住民選挙を行い、可決すれば、グリーンランド国として、新たに独立するそうである。全国民数、僅か、7万人の国家が誕生すことになるのだが。この件は、更に、追跡調査をして、その結果を御報告したい。グリーンランド人は、日本人同様に、生後、短期間、お尻に蒙古斑点が現れるらしい。

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2008年10月5日(日)
26.変な日本語喋るアイスランド国の整備士さん
9月21日
 今回は、初めて、親方以外の請負主から、空輸飛行の仕事を貰いました。既にカナダ国を出て、途中、グリーンランド島辺りで、エンジンオイル温度が、異常値を示し、車輪が格納出来ず、余分な燃料を消費する為、長距離が飛べなく成った与圧客室の高性能セスナ製P 210型機は、アイスランド国レイキャビック空港で、大掛かりな整備中でした。私に、その空輸の仕事を引き継いだのは、トムという、我々の空輸業界では、大ベテランのパイロットの一人です。

 トムから、「松。君なら、引き受けてくれるよ、ね。後のことは、頼むよ。」と、いうEメールを、私は受け取っていて、続いて、既に、その時、引退を覚悟していたトムの心情を綴るメールまでも、私は、トムから受け取っていました。「今度ばかりは、もう、自分が駄目か、と思った。松、俺は、この業界から引退するよ。たった一つの命だからね、分かるだろう。」、私は、それまでにも、過去、何回か、トムからは、Eメールを貰っていたし、時には、会ったことも無い私に、直接、電話までくれていたトムに、「今の、君の気持ちは、良く、分かるよ。」と、自分でも良く分からない様な返事を書いた。

 そして、請負主のトラビスから、直ぐに、空輸飛行の依頼が来た。「松。君にしか頼めない仕事だから、是非、引き受けて欲しい。ベテラン・パイロットが、お手上げだぜ。直ぐに、アイスランド国に行って欲しい。」と、いうEメールに、私は、「後は、任せて欲しい。ところで、報酬は、幾らくれるのか?」と、簡単なEメールで返事をすると、約束通りに、直ぐに、支度金が、多少、多目に送金されて来た。余ったら、その分、返金するのだろうか、と、私の疑問。

 トロント市営空港で、新しいエンジン用に12クオーツのミネラル油、12缶とオイル・フィルターを1個だけを購入して、それを旅行バッグに入れて持参して、月曜日の朝、私は、早速、アイスランド国に到着した。カナダ国から到着したケフラビック国際空港から、首都のある国内線専用のレイキャビック空港まで、高速バスで45分とあるが、市内バス・ターミナルで、一旦、小型バスに乗り換えて、空港ターミナルとは反対側の管制塔の在るホテルの裏側に到着した。

 と、小雨の降る中、其処は、未だ、誰も出勤していなかったので、隣の格納庫の方に行くと、そこに並んだ事務所の一つで、背後の格納庫の入り口が、教えて貰えた。その教えて貰った入り口のドアーの横のブザーらしいボタンを押すと、しばらくして、整備士らしい人間が出て来た。私の訪問の目的を伝えると、背後の格納庫の中に入れてくれた。ようやく、オイル缶の入った大きな荷物を肩から降ろして、机の上に置き、辺りを見回した。すぐ横が、格納庫の入り口だったので、格納庫に入ると、私の担当機が、エンジン・カバーが外されたままで、未だ、整備中らしい。「なかなか、立派な飛行機だ。」と、安心をした。

 向こうの方で、双発機を、取り回ししていた中から、一人の背の高い整備士が、近づいて来た、「元々、何処から、来たのか。」と聞くから、「日本から来た。」と、答えると、相手は、急に日本語に変わった、「私の妻は、アイスランド国の大使館で働き、私は、一緒に東京で遊んだ、ね。」と、変な日本語を、喋り出したが、私は、この時、如何、対応して良いものやら困って、どうやら、結果は、英語と日本語のチャンポン英語に成った。持参した部品と、オイル缶を渡すと、日本語を喋る整備士は、手際良く、オイル・フィルターを組み込み、エンジン・オイルを給油した。「それでは、エンジンの試運転をしますから、飛行機を外に出しましょうか。」とか、言い出した。

 「私は、機体の外から見ているから、貴方が、自分でエンジンの試運転をしなさい。」と、私は、言ったが、変な日本語を喋る整備士は、反対に、「やって下さい。」と、私に頼むから、「それじゃー、良いよ。」と、私は、気安く引き受けて、その飛行機を、移動の支援に集まった他の二人の整備士と協力して、格納庫の外に出し、安全な場所に駐機して、操縦席に座ると、ひと通り機内を見回して、何と、多くの計器類が有ることかと、感心をした。まるで、ジエット機並みである、目の前の計器板の上に並んだ、実に数多い電子機器や計器類の混雑した配置状態を見ると、何が、一体、何処にあるのか、が、良く分からないのである。

 それでも、今は、単にエンジンを始動させるだけだから、何のことはない、機外で、安全監視をしている変な日本語の整備士を見ながら、手を回して合図を送り、手元の操作指示票に従って、スィッチ類を、一つずつ動かして行くと、エンジンは、すぐに回転をし始めた。実に、快適な音を発して、エンジンが回り始めた。持参した、ミネラル油のことと照らし合わせると、多分、真新しいエンジンに違いないから、これなら、何とか、スイス国までは行けそうである、と、私は、思った。試運転の間、30分間の内に、3回か、4回ほど、エンジンを始動したり、停止したりしていたら、変な日本語の整備士も、ようやく、O.K.の合図をしてくれた。小雨模様だったが、「それじゃー、明日の出発の為に、戸外の駐機場に移すよ。」と、私は、その整備士に言った。「どう、ゾー。」と、その整備士は返事した。やっぱり、変な日本語だ。
                             (次週に続く)


 新規編集担当として                    澤井孝雄
 この度、高校時代の友人の寺原君より、ひょんなことから編集委員?をやってくれと頼まれました澤井です。どうなることやら分かりませんが、少しづつやってみますので、宜しくお願いします。
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2008年9月29日(月)
25.ルーマニア
9月7日
 グーズベイ村のマリーナ・レストランに3名のフェリーパイロットが、明日の出発を前に、夕食時に一緒に集まりました。デニス47歳と、リチャード40歳と、私です。二人とも、揃って転職組みです。ジェイスンは、菜食主義者で、部屋に閉じ篭っています。デニスは独身主義の様で、家庭の話が出ると、「おいおい、止めてくれ、俺は、根っからの独身主義だぜ。」と、前以って敬遠します。
 デニスは、正しく、高校教諭として、生徒との日常生活に疲れて、一人に成りたかったから、今回フェリーパイロットの道を見つけ転職したそうです。手先の仕草と態度は、どこかオカマっぽく、それでいて大変紳士的で、全体に誰に対しても丁寧です。決して結婚しないと言いますから、本物のオカマなのかも知れません。見ていて、如何にも都会的で洗練されて、上品です。
 それを見て、私も、早速コーヒー茶碗やビールのタンブラーを持つ時に、ピンと小指を立てて、オカマ風にして見せましたが、この二人の前では、その効果は有りませんでした。デニスは、元高校の先生らしく、さすがに雄弁で、説得力の有る口調が自信気です。しかし、リチャ−ドも、負けてはいません。相応にカウンター発言をして、さすがに強い存在感を示しています。
 二人の話す内容を聞いていると、相当なレベルの高尚な話だと分かりますから、私には、全く口を挟む切掛けは有りません。ここは、黙っている方が、日本人としては無難でしょう。二人に質問をされたら、極々、簡単な質問に対してだけ答えようと、先ほどから腹をくくって待っています。

 さて、翌朝、いよいよ、出発の時がやって来ました。約束よりも、30分も早く、ホテルを出たデニスは、私が、FBO事務所に到着する頃には、もう自分の飛行機に向かって、足取り軽く事務所を出て行きました。高速ピストン機に颯爽と乗り込むと、エンジンの快い音が聞こえます。

 一方のリチャードの方は、カウンター越しに職員と話し込んで、腰が重い様で、出発する気配がありませんし、先ほどから、なかなか自分の飛行機に近づきません。多分、最初の洋上飛行を躊躇っているのでしょう。気分を集中させようとして、反って焦っている様にも見えます。しかし、私に弱音は見せません。
 ようやく、自分の飛行機の方に歩き出しました。そして、機内に入ろうと準備中です。私は、その機会に近づき、私の持ち出したグリーンランドの地図を差し出しました。そして、「これなら、他の、どんな地図より詳しく書いてあるから、間違いなく、ナルササックに辿り着くよ。」と、説明しました。
 リチャアードは、嬉しそうです。「いいのかい。こんな大切な地図を貰って、、、。」と、言いますから、「いいんだよ、も、後一回だけしか使えないボロボロだからね。また、最初から、新しい地図を買って、作り直すさ。」と、言うと、別れの挨拶に代わりました。
 グーズベイ空港からリチャードが離陸して、機影が小さくなって行くのを見送ると、いよいよ我々の出発の順番です。「さーて、北極圏に向かって、また、ひとっ飛びするか。行くぞ、ジェイスン。我々は、北緯67度だ!」。
          ***************

イタリアの東隣には、アドリア海を隔てて、昔は、大きなユーゴスラビアという国が在りましたが、今は、御存知の通り、先刻の内戦によって、クロアチア、ボスニアとセルビアの三カ国に分かれた様です。
 今回、私が給油の為に立ち寄ったクロアチア共和国も、その一つですが、テレビで見た私の記憶では、今日でもNATO軍が、連日空爆を行っているのかと思っていましたので、当然、イタリアのジェノバ空港を出る時から、クロワアチアのドブロブニック空港までの間にも、最悪の事態も考えて、私の飛行機目掛けて、幾つかのロケット弾が飛んで来るのではと思って、ずっと身構え、身を硬くしていました。
 しかし、実際に、給油空港のドブロブニック空港に降下して見ると、アドリヤ海の島々は美しく、大きな白いヨットが帆走している事情は日本のテレビで見る様子とは違っていました。まるで航空母艦の上に着陸する様なドブロブニック空港は、私の好きな着陸し易い空港の造りです。無事に着陸を済ませると、そこには、期待外れとも言える、何とも平和な風景が在りました。

 到着後に、近くに居た空港の職員に聞いて見ると、既に、過去の内戦状態は終わっていて、今はその内戦で疲弊した被災国家状態からの新たな復興事業に、国民が全力で戦禍を忘れるかの様に必死に取り組んでいるそうです。正しく、日本のテレビで「聞く。」と、実際に「見る。」とでは雲泥の差、とも云える様な、大きな違いでした。
 そこから美しい青空の中、航空管制に従って機体を離陸させてからは、途中の航空管制区は、いずれの国も、直行・直行、また直行の、最短距離を飛ばせて呉れるので、アッと言う間に、アルバニア、マセドニア、ブルガリアを通過すると、ついに、最終目的地のルーマニアが在りました。

9月9日
 今回は、パイパー社製の双発機をルーマニアのブカレスト空港に届けて、3泊したらカナダに帰ります。今日でルーマニア2泊目です。昨夕は初めて市内に出て見ましたが、自由化した東欧のどの国にも見られるような、最初の混乱状態にある様です。そんな中でも、子供と若者だけは、大変元気そうです。
 宿泊先の4星ホテルは、空港から10分位の距離にあり、なかなか立派です。一回のレセプション・カウンターの上には、リンゴが沢山用意されていて、お客が自由に持って行きます。さすがに農業国の豊かさなのでしょうか。それでも、最近は、少しずつ工業化が進んでいるようです。
 ブカレスト市には、2つの空港があるそうですが、私が到着したのは市の直ぐ北側にある空港で、狭いエプロン内に小型ジェット旅客機が5−6機も並んでしまうと、身動きが取れない状態です。ターミナル・ビル内も狭くて、日本の離島空港よりも劣る状態です。
 もう9月の上旬末日なのに、夜でも29度Cの暑さで、少し歩いただけで、汗だく状態になります。自由化された経済社会とは言っても、国民の多くは、まだ社会主義時代の感覚から抜け切れていないようです。ホテル従業員のお客に対する態度にしても、多少命令的な口調があって、慣れないと混乱します。しかし、丁寧な仕事をすることは、他の国には見られない見事さです。国民全体が、大変真面目そうです。誠実な国民性が自慢の国かも知れません。チップを渡そうとしても、その都度拒否されるのは、ヨーロッパではこの国だけです。

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2008年9月22日(月)
24.パリの日本人パイロットのお化け
 話は遡りますが、雨と雲の層の中を、ロンドンからジェノヴァに向かって飛んでいた時のこと、1万フィートで、パリ管制区を北西側から南東側に通過していました。無線を良く聞いていると、日本航空のパリ到着便が、我々の空輸機と同じ管制周波数に入って来ました。次第に降下飛行を繰り返し、パリ国際空港の方向に向かっていく様子が無線交信の様子から分かります。
 今度は、全日空パリ便の到着機です。パリ管制官は、何と、厚い雲の中、我々の真ん前を、全日空のジャンボ機を同じ高度で横切らせようとしています。「米国籍N633機、正面を通過中のジャンボ機が見えるか。」と、聞くので、「我々は、雲の中だよ!」と、私は答えました。
 そこで、私は同じ周波数で、「全日空xxx便、御苦労様です。」と、挨拶しました。当該、全日空機からは、「、、、、、。」、返事は有りません。多分、パリ全日空のカンパニー・ラジオの呼び掛けだと思ったのでしょう。
 暫くの間、誰も何も喋らず、無線は無言状態です。そこで、私が「全日空xxx便、こちら近くで、米国籍機で飛んでいます。よろしく。」と、挨拶したら、少し経ってから、パリ管制官が、「誰か、呼んだか。」と、聞いてきましたから、私は、「こちら、米国籍N633機、失言。無視して下さい。」と、返答しました。
 私の隣では、操縦席のワトソン婦人が、一連の会話を聞いて、笑っています。確かに、パリ管制区で、突然、日本人パイロットの呼び掛けが聞こえたら、さすがに全日空機の乗員は驚くでしょう。何しろ、箱入り息子たちの集団で、俗世間の世界的な航空事情を全く知らない人達でしょうから、ね。後日、「パリ管制区で進入中に、日本人のお化けパイロットが出た。」とか、何とか。

8月29日
トロント−本日から3日間、トロント市営中央空港では、エアーショーが開催されることになっていますが、残念ながら初日、金曜日の天気予報は雨です。明日・明後日は晴れの予想ですから、週末は、中佐名空港に、多くの観衆が押し寄せてくるものと思はれます。
 ここ数日間、曲芸飛行機が編隊飛行をしている姿を、何回か目にしていましたが、このエアーショーの準備だったのでしょう。唯、第3番機の距離保維が良くなくて、少し気になっていましたが、本番までには改善されるのでしょう。
 ところでトロントは、ニューヨークが、危険な都市だと考えられたのか、次第に、芸術面で、ニューヨークの避難都市として、大きな評価を得ているようですが、先日開催されたトロント国際映画祭の様子を日本人留学生がビデオを製作してくれました。本人の許可がもらえましたので、作品の一つを紹介します。
http://www.youtube.com/watch?v=9NEdSqmEikY&fmt=6
 日本の学生達の留学先としても、トロントの人気は高いようですが、よく納得出来ます。
 今回、空輸飛行に同行するダニーは、今バッファロー空港まで来ていて、昨夜中にトロント入りをしたいというEメールがありましたが、天候が悪いので、バッファローに留まるようアドバイス、実際どうしたものか、その後の動向が気になります。エアーショーの合間に、ダニーが到着すれば、その翌日には、トロントを出発して、北極圏に向かいます。

9月1日
 双発機でルーマニアへ−私が、今回空輸を担当するパイパー社製双発機は、全オプション機器を装備した、素晴らしく見事な機体ですが、果たして、期待通りに全装備機器が作動してくれるかどうかは、見た目には完全な状態な状態ですが、実際に飛行してみないと何とも言えません。
 呉越同舟、中国・台湾生まれ、米国育ちのダニー君と共に、カナダ東北端のイキャルト空港で待機中です。ダニー君のジーゼル・セスナ機は、まだ、修理中のところを、急ぎ、整備場からダステイン君が持ち出した様で、故障を起こしがちで、まだ未修理・未完成の気がします。
 私のパイパー社製で、既に中古モデル機種となった双発機は、必要な各種装備品が、多種・多様に揃った素晴らしい飛行機ですが、唯どういう訳か、GPS機器だけが、中途半端な低価格モデル機で、しかも、今は故障していて使えないので、今回はそのGPSを頼りにして航法を行うことが出来ません。これは、実際、大変なことでした。

 つまり、短距離区間は超短波無線信号に寄るVOR指示器に頼り、中距離飛行区間は、中波無線信号に寄るADF指示器に頼って、飛行せざるを得ないのですが、実は、中波無線信号を発信する大西洋岸のNDB無線局の信号は弱く、僅か100海里ほどしか届きません。太平洋岸に位置するNDB無線局と比較すると、短距離用の無線局ということになります。
 従って、結果的に、最も頼りとするGPS受信・表示機が無ければ、大西洋岸では長距離航法が出来ないのです。しかし、今更私としては、カナダ最東岸のここから、引き返すことも出来ません。
 そこで、無線信号を受信出来ない洋上空域と、氷山に覆われた山脈の広い空域だけは、無線機器に頼らない航法として、今回だけは、推測航法を利用することにしました。
 それは、予想される風の方向と強さから得られるベクトルと、自分の飛行機の速度成分ベクトル成分とを、各地点で合成して、そこから自機の進路を決定し、その進路を守りながら、且つ一方では、地文航法の得られる地点では、予想風と実際の風を比較し、計画的に修正・変更させながら、出来るだけ、目的地に近い地点に辿り着こうという考え方です。  

 当然ながら、気象予報から得られる予想風というものは、余り当てには成りませんが、全くの出鱈目では有りませんから、やはり、一番参考にすべき基礎データーです。
 一番参考に出来るのは、無線航法の出来る区間内で、出来るだけ正確な実際の風の成分を把握しておくことでしょう。そして、その風の成分が、各地点を通過するうちに、今後どの様に変化して行くのかということを、読み取ることが要求されます。
 また、仮に予想風の成分が間違っていても、それをどの地点でどうやって理想的な軌道に戻し、修正するのかという新たな計画性も必要でしょう。全てが推測だけでは、それだけ危険性も大きくなりますから、どこかで、現実的な要素を組み入れて、可能な限り理想的な軌道を、全行程に渡って確保することが必要です。
 そうして、私は紆余曲折、何とか、多少北側に逸れながらも、グリーンランドのサンドラストーム空港を見つけ、更にイルクークツ空港からアイスランド国のレイキャビク空港に辿り着くことが出来ました。
 しかし、まだその後もGPSは作動せず、推測航法を頼りとして飛行する区間は、ずっと強いられて続き、結局スコットランドのウイック空港まで、概ね無線航法に頼って飛行を続けることとなりました。
 次に、私が頼りとしたADF指示器も、その誤差が大きく、心の頼りとすれば、大きく横道に逸れて、当惑を何度も繰り返しました。
 では、「その腕前は?」と聞かれれば、まあ何とか希望する目的地にまでは、無事に辿り着くことは出来ました、という程度のことです。今時、この高度な電子機器の揃った時代に、推測航法だけで飛べるパイロットは、世界中でも数少なくなったと思います。

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2008年9月15日(月)
23.英国の日本人女性パイロット
8月10日
 最近はロンドンが気に入り、渡欧の度に立ち寄るようにしていて、英国人の喋る英語が少しずつ聞き取れるようになりました。そうなると、人は少しずつ真似をしてみたくなりますから、私も、時々英国なまりとイントネーションを真似て、一人で大笑いしています。将来、キングズ・イングリッシュなまりの日本語を喋るお笑いタレントが登場するかも知れません。米語に馴れている我々には、大変、刺激的に聞こえますし、表現する語句も米語の表現とは、だいぶん違っている様です。ロンドンのホテルでは、3階の部屋を指定されて、2階でうろうろ、G階のフロアーに行き着けずに、1階の客室フロアーでもうろうろしている日本人は、ごく普通の光景です。
 そのロンドンで、福島県出身のWエツ子さんからメールが届きました。日系企業の財務担当の仕事をしておられる女史は、フランス製の自家用機を所有するパイロットでもあります。私が、ケンブリッジ空港にセスナ機で着陸した際に、飛行中の彼女と御主人に出会いました。エツ子さんは所属する飛行クラブの抽選に当り、私が北米から空輸した、G1000電子装備付きのセスナ機C−172に試乗出来たのだそうです。
 日本人が大西洋を渡って空輸した飛行機に、欧州で活躍される素晴らしい日本人の女性パイロットに乗って頂いたとは、何ともうれしい話です。私にとっては、単身日本から渡り、英国で成功して活躍する日本人女性として、オノ・ヨーコさんに次いで偉い人に間違いありません。




 そんな縁で、彼女と御主人のコリン・ワトソンさんと私の3名で、ロンドン郊外の小さな空港から、スイス・アルプスを越え、コロンブスの育ったイタリア・ジェノヴァまで、双発パイパー機で飛行出来たことは、今年の夏の私の良い思い出でしょう。彼女にとっては、ポジテイブ・コントロールなど、様々な新しい操縦法について学ぶことが多々あったのかも知れません。
          **************
<ジェノヴァ地下鉄事件>
 ジェノヴァでのこと、港の近くのコロンブス海ホテルに宿泊していた我々3名で、市内の中心街に向かうのに地下鉄に乗った時のこと、山の方から下りて来た地下鉄の2番目の駅に我々3名が到着し、さて、切符を買おうという話になりました。そこで、私が試しに自動販売機に10ユーロを入れると、お釣りの3ユーロだけが出て来て、肝心な切符が待っても出て来ません。困ったものだと周りを見渡しても、我々以外には誰も居ません。
 しかし、改札口に行くと、ゲートは開き、我々がプラットホームには行けそうです。という事は、電車には乗れそうですから、そのまま目的の市内の終点まで5つの駅くらいは行けそうですから、思い切って終点まで行けば、地下鉄職員にも会えそうです。そこで、事情を話して、切符を交付して貰おうという事になりました。
 我々が地下鉄に乗って、5つ目の駅が市内の中心地です。電車を降りて、長いエスカレータに乗って昇ると、改札口が見えて来ました。その改札口の横に、自動販売機が幾つか在りました。そして、そこに2人の地下鉄職員らしい人が居て、カバーを開けて自動販売機を点検しています。
 我々は、職員らしき人に声を掛けて、事情を説明しようとしますが、相手は、英語が分かりませんから、盛んにイタリア語で応答しています。そのイントネーションが強いので、私の英語も、イタリア語の様な語尾にこぶしを利かせた強いイントネーションの変な英語に、突然変わります。お互いが、お互いの言い分を、よく分からないから、いよいよエキサイトして来ると、さすがに、それを見かねた、ワトソンさんが割り込んで来て、「切符が無いのなら、新しく買えば良い。」と、私を嗜めます。私は、「いえいえ、私は、今イタリア人との、議論を楽しんでいます。」と、笑って答えると、ワトソンさんは、口アングリの状態になりました。
 結果、私だけが職員と共に、元の駅に返り、そこで予定していた切符を手にしましたが、それは3人分の切符でした。その後、何度も同じ終点駅を通過する度に、先ほどの職員が、「チャーオ。」、「チャーオ。」と、親しげに呼び掛けてくれるようになりました。
          ***************
8月20日
 9度目の大西洋横断を終えて、只今ロンドンからトロントへ向かっています。同僚のダステインとジョナサンは、今日ケフラビックからウイックに向かっていると思いますが、グリーンランドを越える時に、機体凍結を起こして、ナルサルサック空港に途中から引き返したそうです。二人にとって、今回は災難の旅のようですが、二人とも2日以内には今の仕事を完了するのでしょう。
 今回は、私にとっても、悪天候の北極圏をかすっての、2週間の長旅を無事完了出来て、ほっとしています。少しずつ、ヨーロッパの飛行にも慣れて、各国の管制官とも楽しく交信出来るようになりました。時には、彼らのアクセントを真似て応答するので、彼らもついつい笑っています。特に特徴ある英国人の発音は、時々耳障りで、私はからかい半分の気持ちで、積極的に物真似で応答して管制官を笑わせて楽しんでいます。しかし、昨日オランダからロンドンに抜ける海峡で、管制していたロンドン空域所属の女性管制官には、全く訛りが無く、かえって奇妙な印象を受けました。
 私の操縦の腕も、少しずつ上達しているのが、自分でも最近感じますが、積乱雲に囲まれた空港に進入中、低空飛行でレーダー誘導中に、バケツをひっくり返したような大雨の中、無線も通じなくなると、雨水を吸い込んでエンジンが突然停止するのではないだろうか、という心配もしました。しかし着陸する頃には、急に嵐が過ぎ去ったような静かな天候に変わっていますから、不思議です。

 話が変わりますが、雪の積もったグリーンランド・ナルサルサック空港で会ったドイツ人パイロット3名の、唯一人のプロ・パイロットとは、その後も何度か出会っています。何しろ、高速ピストン機に乗って、私のセスナ機の2倍近い速度で飛び回っています。私が一回の空輸を終える間に、2回から3回の空輸を完了する程の、ものすごい空輸の回数で大西洋を横断しているようです。
 時には4・5名の若いパイロットを引き連れ、また時には一人で飛び回っているのです。稼ぎも、私の5倍以上になるでしょう。それは、60回以上は大西洋を横断している実績があってこそ可能であって、私のような新参者が、とてもいきなり出来る芸当ではありません。
 私と出会う空港では、私の後に到着しても、いつも翌朝の夜明け前に、私より先に出発するのが、彼の常です。感心するのは、彼はエンジンを始動しても、その場に30分以上は留まっていることです。時々、私は自分の出発準備をしながら、一体何をしているのだろうと、操縦席の彼を観察することがあります。出発を前に、寝ているのかなと思うこともあるのですが、いつも此方をちゃんと見ているので、寝ている様子はなく不思議に思います。慎重さが、我々日本人と違うのは、ドイツ人特有なものなのでしょうか。

8月26日
 この度、カナダ運輸省航空局は、航空法遵守徹底の観点から、グーズベイ空港とナルサルサック空港間の飛行には、HF無線機が必要という従来からの考えを徹底することになり、我々は、これまで通りに、HF長距離無線機無しで、この空域洋上を、横断・飛行することが出来なくなりました。
 従って、本来なら、更に北極に近いルートを通ってグリーンランドを、横断しなくてはいけませんが、ここに、スコットランドの航空家が登場して来て、ガンダー航空管制センターの責任者と交渉し、ガンダー航空管制センターの関与しない、6000フィーと以下の高度なら、適用されないと主張します。
 それが正しいなら、最初に誰が実際にその方法で飛ぶのか、といことになりました。私が、その事態に直面するのは、多分木曜日で、今日は火曜日ですから、私の前に数名が実験するのか、それとも、日本人である私が最初になるのか、我々小型機空輸パイロットの目が、一点に向いています。
 こういう場合の皆の考えるジョークは、決まっています。「松、お前達は、昔、パールハーバーを攻撃したのだから、その勢いを、今再び、我々に見せろ。」です。面白いけど、私には笑えません。ここは、航空法遵守の立場から、何とか上手く収まって欲しいものです。あと、二日間の猶予です。勿論、私は、HF長距離無線機を市中で探しています。
寺原 松昭 

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2008年9月7日(日)
22.ベルファストへの旅
 8月3日
 グーズベイ空港で、2週間駐機していたセスナ機に初対面しました。どこにも、埃すら見つけられない様なマッサラな新造機です。ピトー管には、カバーが掛かっています。前日にエンジンの試運転をしたら、完璧な状態だと分かり、何の心配も有りません。
翌日、5時半にホテルを出て、6時前には、出発の準備に取り掛かりました。航空用ガソリンは、増槽タンクも含めてすべて満杯で、機体の尾部が下がって地面に接地していますから、離れて遠くから見ると、旧式の尾輪式飛行機の様に見えます。
ワンタッチ式の点検孔を開けて、エンジン・オイル量を点検して、航空燃料の中に水が混じっていないか、飛行機の周りを回って、傷や、凹みが駐機中に発生していないかを、確認します。そして、飛行計画書を書き上げて提出です。
シーラス社の最新型新造機5機も同時に出発しますから、ほぼ、同時間に、7機が、一緒に、グリーンランド方向に離陸して行きますので、管制塔から飛行許可が下りるのも時間が掛かります。私の順番が最後に指示されて1時間近くも待たされました。
 そして、滑走路脇に待機できた私の機番にも、ようやく離陸許可が出ました。私が離陸操作を行うと、増槽燃料タンクに入った余分な燃料重量で、重い機体が少しずつ加速を始めましたが鈍重です。そして速度計を見ると、何だか「変な様子」なのです。
速度計の指示数値が、いつもより、ずっと、少ない様な気がします。読むと、現在、「25ノット」を、速度計は示していますが、どう見ても、私の感覚では、55ノットは出ている様子です。と、そう考えていると、突然、機体全体が、「浮遊」しています。離陸です。
「待て、待て。」、「25ノット」の速度では、浮遊するには、遅過ぎますが、見た目の実感速度は、十分そうに感じられます。そこで、左手に見えるピトー管を見ると、何も異常は無く、きちんと、カバーは外してあり、裸のピトー管だけが有りました。
「どうも、これは、困ったぞー。」と、思いましたが、同僚のダステイン君は、既に離陸して、上昇中だし、このまま15時間、アイスランド国まで、飛行を続けるしか無さそうです。離陸後の上昇中でも、指示値は、「35ノット」ですから、異常値には違いありません。
何と、ピトー管が、詰まっていたのです。間もなく、速度計の指示値は、ついに、「0ノット」に成ってしまいました。しかも、アイスランド国のケフラビック空港の気象は最悪な状況でした。「それなら、途中のグリーンランドに着陸しようか。」、迷いました。

一体,誰がピトー管を詰まらせたのだろうか?そして、何も無かったかの如く、ピトー・カバーを掛けて、故障のカモフラージュの偽装したのだろうか?
離陸時に、オーバーウエイト状態なら60ノットは示す速度計が、たったの25ノットを示して、機体は地面を離れてしまった。だから、2.4倍すれば、おおよその対気速度が予想出来ると思っていたら、やがて速度計がゼロを示し、完全に用をなさなくなってしまった。
燃料を消費して、機体が軽くなってから、途中のグリーンランドの空港に着陸しようと思っていたら、ダステイン君が、「このままアイスランドまで飛びたい。」と言うので、私も同意した。しかし、その時天気予報は、霧の発生を告げていた。それでも、アイスランドに向かったのは、大量の燃料を搭載していたからだろう。5時間は飛び続けられるので、目的地のケフラビック空港まで飛んでも大丈夫だし、強風下の霧なら、2・3時間も待てば霧散するだろう。
しかし、雲は低くたれこめて、雨も降っていた。ILS計器進入方式の指示に合わせて、自動操縦で降下していたら、対地高度2千フィート位の高度で、自動操縦が突然解除されて、手動に変わり、「速度入力なし。」と赤いX点が画面に表示された。それで、フッと我に返り、操縦桿を握って、対地速度を頼りに、何とか着陸出来た。
それは、単に「ラッキーだった。」と言う他はない。またしても、幸運に助けられた。先に着陸して、私の着陸を見守っていたダステインが、「お見事!」と言って、迎えてくれたが、私は、失った命を、もう一度返して貰った様な気持ちだった。

8月4日
 いよいよ、スパイ映画に度々登場するIRAの拠点ベルファストに向かうことになった。理由は簡単、旅行シーズンの真っ只中で、ロンドン発の安い航空便が総て満杯状態だったが、週一便しかないベルファスト発トロント行きの定期便に空席があった為で、急いでベルファストに向かうことにしました。
 乗り継ぎに要する費用を計算に入れると、ロンドン発の有名航空会社便の空席を見付けた方が、賢明だったかもしれませんが、ベルファストを訪ねる折角のチャンスに夢を託しました。何としても、世界一過激と言われた政治的武装集団の巣窟を、この目で確かめておきたいと、考えました。
 私は、「怖いもの見たさ。」の心境でした。「はっきり言って、ベルファストに行くのは怖い。」と言ったら、「それは昔の話。」と一笑されました。そう言われても、突然路上のバスやトラックが爆発炎上してもらっても困りますから、充分に注意しなければなりませんし、無事に通過出来ることを願っています。私としては、唯単に、街の雰囲気だけでも感じ取れて、2.3軒のアイリッシュ・パブで地のビールが飲めれば満足です。
 それと、ベルファストからカナダに入国する際に、トロント当局が私をどう見るか、多少心配になります。でも、米国が嫌がるキューバに、堂々と連日定期便を飛ばしている国ですから、大丈夫でしょう。
 かつては、世界中を震撼させたベルファストも、今は安全な街と変わり、私でも訪問出来るようになっていました。其れでは、行って参ります。

8月5日
 そして、何事も無く、ベルファストの夜は明けました。実は、そこの国際空港の到着ロビーに寝転がって、私は一夜を過ごしました。待っているトロントからの便が2時間半も遅れる見込みですから、折り返しの私の便も同じ時間は遅れるはずです。急ぐ予定の計画も無いので、じっと待つことにしたのです。
 次の空輸予定機は、セスナ社の生産している機種で、最も小型かつ兼価版である為に、エンジンは最小出力の160馬力しかありませんから、グリーンランドの氷河の上空を、冷や汗をかきながら、飛び越えることになりそうです。おまけに、空輸用の燃料タンクの増設もないようですから、また北緯67度線まで登って行くことになります。この際、序に北緯69度を越えて,Midnight Sun(沈まぬ太陽)を見ておきたいとも思いますが、そう簡単に実現は出来ません。
 この空輸には、ジェイソンが、「一緒に付いて行きたい。」と言って、モントリオールで、私の帰りを待っているのですが、同行させて良いものかどうか、私は迷っているところです。親方は、一度弱音を吐いたジェイソンを嫌って、その後、彼には空輸の仕事を与えていません。ですから、彼を連れて行くと、親方の誤解を受けるかも知れません。私は、「ジェイソンに2度も空輸の仕事を与えたよ。」と、親方に報告したので、びっくりしたようです。今では、「この日本人只者ではないぞ。」との印象を、親方に与えてしまったかも知れません。本当は、只者なのですが・・・ね。
寺原 松昭

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2008年8月31日(日)
21.若い仲間達
 7月19日
 来週初めには、トロントで待つ私をグーズベイに移動させる為に、親方が派手な先尾翼機に乗って来ると言うので、私の方は、多少恥ずかしくなる気持ちを抑えて、ホテルで待機しています。
 米国フロリダ州でキット製作されているベロシテイーという特殊な飛行機ですが、北米以外には、完成機として輸出されている様です。
エンジンとプロペラを最後尾に配置している為に無駄な空気抵抗が発生せずに、効率良く推進力が得られるという科学的な信念の下に設計された飛行機です。
日本では、唯一機だけ、大阪の落語家が、良く似た機種を所有している 先尾翼機ベロシテイー様ですが、型式限定機ですから、当該モデルに限った操縦許可が必要だと聞いています。本場の米国では、何種類かが普及していて、その高い効率故に、それなりに愛好家が多いようです。しかし、一般のパイロットには、馴染めないプロペラ配置に、操縦の難しさを予感して、全体として、普及は限られています。しかし、チャレンジ精神の強いパイロットにとっては、一度は乗ってみたい飛行機なのだろうと思います。
 仲間のトムに連絡したら、早速、親方に頼んで,乗務したい意向を伝えたようですが、私にとっては、笑い話や話題作りには良いとしても、こんなおかしな形の飛行機に慣れてしまうと、反って、普通の飛行機に乗りにくくなるかも知れないという、パイロットとしての技術的な不安を持ちます。しかし、一方では、多種多様な飛行機を乗りこなすことによって、パイロットとしてのセンスが磨かれるのでしょうから、辞退することには意味がありません。やはり、挑戦すべきでしょう。  

7月27日
 今回は、グーズベイに置いてあるセスナ機までDead-head(移動勤務−移動中は頭を使う必要がないで済むと言う意味らしい)で便乗するので、ダステイン君が同じモデルのセスナ機で、トロントまで迎えに来てくれました。わざわざメイン州の東端から5時間以上もかけて来てくれたので、其の日は、トロント市内のホリデーインに泊まってもらい、翌日市内の中央空港から、グーズベイに向かうことにしました。
 ちょうど、2〜3日前に知り合った日本人旅行客の女性が、近くのホステルに泊まっていたので、夕食に招待して、三名で日本料理店に入りました。
最初は控えめだった日本人女性は、ダステイン君を紹介すると、興味を示してくれました。
 祖父がエアラインの機長を勤めた家系のダステイン君、将来は一流エアラインの旅客機に乗ることは分かり切っています。元気の良い若者です。「親方がいつも、松のことを自慢するから、一度会ってみたかった。今日は、会えて、本当にうれしい。」と次々に質問をして来て、彼が得た情報を私にくれました。春先に、彼が、私にセスナ機をトロントまで運んで来てくれた事を思い出しました。「あの時は、会えずに汽車でデトロイトに帰ったのを覚えているよ。」と伝えました。
 翌朝、ダステイン君の機長勤務で、グーズベイに向かいました。無風なら9時間のところを、追い風に乗って7時間の旅でした。道中、「生き残るパイロットになる為のコツ」を教えてやったら、驚くとともに喜んでいました。  

冬季には、マイナス34度Cまで体験したグーズベイですが、真夏の気温は20度C以上になっているのでしょう、歩いて空港を半周したら、汗だくになりました。南の空には入道雲がいくつか見え、水上機がその方向に木材を積んで、飛んでいました。
今日は、アイスランドの南西に停滞した低気圧の影響で、アイスランドに向かうには向かい風が強すぎるので、昨夜のうちに出発を遅らせることを決めていました。しかし、一日位待っても、余り良い結果は望めない様な気がします。それでも、即座に飛び出す訳にも行かず、ともかく、一日待って気象の変化を見ることにしました。

7月31日
 昨夜は、ウイックの北、キャッスル・タウンの小さな街のホテルに、いきなり、9名のパイロットが集まったので、夕食時から、会話で賑わいました。

ダステイン君は、社交性に富み、こうした場では人気者です。出る釘になりたくない私には、大変助かりますし、スコットランド人の方言が聞き取れない私に、時々通訳もしてくれます。
 話題には様々なテーマが取り上げられ、それぞれに得意とするパイロットが説明し、未知の知識を見せ付けて、銘々が感心するというパターンです。誰もが、謎めいた東洋の国から来たパイロットの私に、一目置いて敬意を払ってくれますが、くすぐったい気持ちだけが先行します。
 二人の若いパイロットを従えているベテランのフェリー・パイロットが、「松は、経験豊かなパイロットだから・・・・」と言いますから、身に覚えの無い私は、どう対応したら良いのか分からず、黙って隅の方に座っていましたが、余計に目立ってしまい、とうとう自分の部屋に帰って、お先に休むことにしました。
寺原 松昭

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2008年8月24日(日)
20.日米のパイロット免許
 それにしても、日本の誇るコミューター航空の元大キャップテンが、ロスアンゼルスとロングビーチのFAA事務所を回っても、米国の自家用パイロット免許さえ貰えなかった、ということは何とも悲しい結果です。
 昔は反対に、米国のパイロット免許に対して、日本の航空局は、冷ややかに自家用免許しか発行しませんでした。FAAは、それでもずっと、日本のパイロットに対して、対等なパイロット免許を発行してくれていました。
 しかし、その忍耐の限度も越えたのでしょうか、ついに、FAA側は、その報復対応としてか、日本のパイロット資格者に対して、急に米国免許の発行を拒否する事態が起きてしまった様です。勿論、日本の航空局側の、根拠の無い米国パイロット免許資格者に対する仕打ちとは違って、FAA側は、明確な根拠を示した上で、米国自家用パイロット免許の発行を拒否し、幾つかの猶予策を与えてくれているのです。日本のパイロット免許資格者には、反論の余地がありません。

 それでは、日本の航空局が、米国のパイロット免許資格者に対して、何故最低資格の自家用パイロット免許しか与えなかったのかというと、どうも、日本の航空大学校の権益を守る為の処置だったようです。その一方で、日本の航空局関係者は、カルフォルニアのシェラ飛行学校で、米国パイロット資格を取得してし、それを日本のパイロット免許に勝手に書き換えていたと言うのですから、その実態は是非とも公表されるべきでしょう。そういう書き換え免許所持者が、その後、航空大学校の飛行教官になったり、航空機の飛行検査官となっていた事実はないのでしょうか。何となく、よく分からない事が背景にありそうです。
          ***************          
 ヨーコ・オノさんの現在の肩書きは、歌手だそうです。日本男性の多くが、彼女を「ブスだ。」と思っているようですが、それは大変な間違いで、欧米では、彼女のような顔立ちの日本女性が東洋的な美人だそうです。
 そう言えば、平安時代の美人の定義も、現在の美人の概念とは少なからず違っていて、すこしふっくらと下ぶくれの顔が美人の条件だったそうですから、西洋人の考える美人の条件が、我々日本男性の考える条件とは違っています。尤も、日本人でも、時代によって美人の条件が、少しずつ変化しているのでしょう。
 つまり、ジョン・レノンは、美人の選択を間違っていた訳ではなく、西洋人男性として理想と考える東洋美人と結婚し、大いに満足していたに間違いありません。ですから、近所の男性に、「ブスだ。」と言われている日本女性が居たら、是非とも、北米・ヨーロッパのみならず中南米にまで出かけて、確認されたら良いと思います。90パーセント以上の女性が、間違いなく白人男性やヒスパニック系男性に追い回されることになります。美人に対する日本男性の感覚の間違いが分かるはずです。
何でもかんでも、無抵抗に西洋文化をまねして来た日本人ですから、これからは、女性の選び方も、西洋男性並みに変化しても良いのではないでしょうか。そして、もう少し「美」というものに対する考え方を、フレキシブルに受け止める必要が、日本男性側にありそうです。まず、自分の顔を鏡で見てから、日本女性の評価をしましょう。
          ***************  
 先日、ファロ(エ)ー諸島のバーガー空港に着陸進入を行う前に、着陸灯を点灯しようとスイッチを入れたら、どういう訳か、大電流が流れて、サーキット・ブレーカーが飛び、一時的な低電圧現象が起き、それまで順調に飛行航路を画面に示してくれていたGPSが、突然シャット・ダウンしてしまいました。こうなると空港迄の距離が分からなくなります。
 必要不可欠な電子装備であるDME(距離表示器)が、最初から不具合を起こしていたので、その分、GPSによる距離表示を代用していました。電圧が回復して、GPSは自動的に立ち上がり始めましたが、完全に元に戻るには、多少時間がかかり、幾つかの位置情報を入力し直す必要もあります。
 それには、多分5分間位はかかり、その間に、飛行機は10海里(16Km)程進み、直ぐに着陸の為の進入降下を始めなくてはなりません。空港に向かって左右のズレは、電子表示器のローカライザーが示してくれますが、高度は、空港からの距離を基準にして、それぞれの位置で決められた飛行高度にまで、降下させて行く様に、手順が決められています。
 しかし、空港からの距離が分からない状態では、勝手に降下も出来ず、GPSの立ち上がりを待って、データーを再入力していたら、空港は既に目の前の筈ですが、深い霧で何も見えません。そこで、思い切り急降下をしましたが、予定通りに降下出来ません。
 この様な場合に、飛行機が事故を起こす可能性が、幾つかあります。今回は、左右共に山が連なり壁の様になっていますから、ローカライザーを中央に維持して飛行しないと、飛行機は左右何れかに片寄ってしまい、近くの山の傾斜面に激突してしまいます。
 次に、高度と距離の関係が正常に示されていませんから、間違って手順以下に高度間隔を下げてしまうと、地表面との間隔が充分に取れず、地表面に激突してしまうこともあります。思い切り濃霧の下に出て、運良く目視で空港に向かえることもありますが、それには確かな保証はありません。
 正しい手順としては、再上昇して、最初からやり直すことが決められています。しかし、実際問題として、小型機では、やり直しによる時間の無駄を省きたいと、考えることの方が多く、GPSの回復を待ってから、思い切り高度を落として、通常の進入経路に戻したいと、考えることの方があり得そうです。
 それは、一旦MDA(最低降下進入高度)まで降下すれば、多分滑走路が見えるだろうという事が、多くのパイロットには、事前に分かっているからでしょう。つまり、そこまで結論を読み切っているからこそ、無理を承知で、強行進入をする事になります。
 この話を、あるフェリーパイロット仲間にしたら、「自分は、別電源のGPSを用意しているよ。」と言われました。やはり、財力によっても、安全は得られるわけです。
寺原 松昭

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2008年8月13日(水)
19.日本より百倍巨大な米航空業界
7月15日
 こんなに毎日待機生活が続き、待たされるのなら、思い切ってゴルフはしたいし、ヨットで帆走もして見たくなります。元々、トロントとは、そういうスポーツに適した土地で、地理的な優位性を持っています。
しかし、自家用車がないと、なかなか思い通りに動き回ることが出来ません。バスや地下鉄を乗り継いで出来ることは、ごく限られた範囲のことで、学生がやっている様な事ばかりです。自分の立場を考えると、とてもゴルフやヨットに興じている場合ではありませんが、少しでも心に余裕が出来ると、「何か、やって見たい。」と考えるのが人情でしょう。もう少し仕事に慣れたら、私もそういう事に情熱を注ぐことがあるかも知れません。
それで、今は飛行機だけです。趣味も、仕事も、共に飛行機に集中しておいて、其の分安全性を高めておき、徐々に心のゆとりが出来たら、ゴルフやヨットにも、気持ちを移して行くのが良いのかも知れません。
トロントの北東側郊外には、ブリジストン・レース学校という自動車レースの教育設備があり、自動車の好きな人には、大変興味のある場所です。勿論、夏季を中心に開催されていますが、毎年半年間以上は開講していますから、参加してみたくなる人も、多いのではないでしょうか。多分、日本人で、このブリジストン・レース学校がトロントに在ることを知っている人は、大変少ないと思います。
私も、チャンスがあれば、一度くらいは、是非受講してみたいと思っています−せめて、F-1の雰囲気だけでも味はえるように。また、それ以外にも驚く程多くのスポーツや野外活動が出来るのが、トロントの特徴です。その充実度は、世界最高のレベルと言って間違いありません。
          ***************
これまでに、セスナ機を届けた国は、英国・フランス・ドイツ・オランダ・ポーランド・ブルガリアで、合計6カ国だけです。まだまだ行ったことのない国の方が多く、これから数年間は飛び続けないと、欧州総ての国にセスナ機を届けることは出来ないと思います。
それから、更にアフリカやアジアの国々にまで飛行機を届けるには、仮に300回としても、総ての国々に届けることは出来ません。それは、飛行機を購入するする国というのは、ある程度経済力で限定される為に、購入する余裕のない国もあります。我々フェリー・パイロットが運ぶ飛行機は、民間機に限られ、軍用機を運ぶチャンスは、多分無いだろうと思っています。
出来れば、近い将来太平洋を舞台としたアジア・オセアニア州にも飛来出来ることを願っていますが、現在の世界的経済活動は、どうしても欧州列強国の強力な資本力に左右される為、欧州が中心となることは避けられないでしょう。
まだまだ、世界中には行って見たい不思議な国がたくさん残っていると思います。誰もがなかなか行けない国へ行ったり、平和そうに見えても、世界のどこかで、常に戦争が起こっていまが、そういう国に入ることも、通過することもあるかも知れませんので、直接現地から近況をこのブログで報告したいと、思っています。
 7月16日
 経済が低迷する米国ですが、アフガニスタンとイラク戦争の影響でしょうが、それでも航空業界の規模では、日本の百倍以上の実力を持っています。実質的には、この二国間の航空経済には、2桁以上の差があり、其の差は年々広がっているように思えます。
 我々のフェリー・パイロットという職業が成り立ち、それが一つの業界となり得るのは、米国航空業界の発展があってこそで、脆弱な日本の航空業界では、成り立たない職業です。今から30年以上前、当時最も有名なフェリー・パイロットだった清水千波氏が、私に対しての、「フェリー・パイロットでは食えないからね。」との助言を、長い間しっかり受け止めて、米国でフェリー・パイロットとしてのデビューが出来る日を、その後ずっと夢見て来ました。
 実際に、この眼で、米国のフェリー・パイロット業界を見渡せば、実に多くのパイロットが出入りしていることが分かります。最も危険だと言われる、小型ピストン機を担当する専門のフェリー・パイロットは、ほんの一握りの数ですが、それでもパートタイマー・パイロットを含めると、50−60名にはなるでしょう。
 それに、小型ジェット機・大型ジェット機・軍用機・旅客機の各部門を加えると、フェリー・パイロット総数で200−300名が米国のフェリー・パイロット業界を支えていると思います。その多くが、テスト・パイロット等のパートタイマーですが、私の様なフェリー・パイロット専門職だけでも50名を下ることはないでしょう。米国航空界の巨大さを示す一例です。

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2008年8月6日(水)
18.またしても不思議なセットランド諸島
7月6日
 デンマーク領・ファロ(エ)ー諸島を出発し、次は英国領セットランド諸島の南端にあるサムバーグ空港に到着しました。北緯60度を越える地域にも英国領があることを、一体何人の日本人が知っているでしょうか。私は、てっきりノルウエー領かと考えていました。勿論ノルウエーとの交流も盛んです。北海油田で汲み上げた原油を積んだタンカーが最初に立ち寄る中継寄港地だそうです。
 私が泊まったホテルには、6千年前のバイキングの遺跡がありましたが、風景は、スコットランドのどこにでも見られる田舎風なもので、夏場は、少しも違いがありません。森や林が無いためか、石垣で潮風を防いでいるのでしょう、延々と続く石垣を見ていると、一体、どこから採掘して来たのかと、疑問が生まれます。丁度、ミニチュア版の万里の長城の様にも見えます。その石垣の仕切りを利用して、其の中で牛を飼っているのですが、羊や山羊も飼われているかも知れません。というのは、この諸島全体の形と配置が、ちょうど羊という漢字に似ていいます。本気の取られると困りますが、昨日は、スコットランドのウイックに行く予定でしたが、余りにも濃い霧で着陸許可が出なかったので、又しても、不思議な島に着陸しました。

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日本から、我々のフェリー飛行に参加予定の元コミュータ航空の大物機長が、パイロット免許書き換えの為、ロサンゼルス地区の米国航空局に掛け合って、米国FAAの地方局責任者の口答試験を受けましたが、あっけなく不合格となり、挙句の果てに、自家用パイロット資格さえ貰えないとう有様でした。これが、実際のところ、日本人パイロットの世界的な評価レベルなのでしょう。決して、それは、単なる英会話の表現能力だけの問題ではありません。ちゃんと、パイロットとして必要な資質も同時に見抜いているのでしょう。FAA検査官らもまた、世界的には、一流のパイロット達なのです。
と言う訳で、とても我々のフェリー・パイロットの「仲間入りが出来る資格はない。」と、FAAに判断されてしまいましたが、「折角、渡米して来たのだから、カナダで、私に会ってから帰国したい。」と言うので、私は、「どうぞ、どうぞ」と、彼のトロント入りを待っていました。しかし、日本のコミュータ界の第一人者が、国際舞台での今後の活躍のチャンスは、はかなくも、消えてしまいました。          

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 メミンゲンという南ドイツの元ドイツ空軍基地跡にある立派な空港に、セスナ製カージナル機を届けたら、現地のFBO(地元使用事業航空会社)のパトリックと言う若社長が待っていてくれました。自ら操縦桿を握る、正しくドイツの誇る優秀なパイロットという感じのする経営者です。とても、日本のGA界にこれだけの人格者は期待できませんが、到着前に何回も交わしたe-メールの内容から見ても、我等新参者が技量比較は出来ない程の操縦達人であることは明白です。こういうパイロットが、敵機350機も落とせる天才パイロットを生んだ、高度に技量を磨き上げる国家だからこそ、生まれた事を疑う余地はありません。
 今回、何とか精密進入着陸飛行に戸惑わず、無事に、難なく一人前の着陸が出来た事は幸いでした。実際問題として、常に単独飛行を強いられる、我々フェリー・パイロットが、操縦技量を磨くといっても、なかなか簡単に出来ることではありません。何故、定期航空会社の機長が、操縦技量に長けるかと言えば、その理由は多くありますが、その一方で、我々フェリー・パイロットの技量が悪いと言うなら、その原因はたった一つで、明白です。誰も、我々の技量を見てくれないし、観客も居ないし、査察操縦士も審査してくれない。どうせ、私しゃ、日陰者。デモ、自分だけは違うぞ、と言いたいのですが、ダメかなー。

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2008年7月31日(木)
17.不思議なファロ(エ)ー諸島 7月5日
 昨日、このファ(ロ)エー諸島のバーガー空港に無事着陸できたことは幸運でした。最初の着陸進入の目標地点に近いたので、着陸灯のスイッチを入れたら、過電流が流れた為に、瞬間的に低電圧となり、最も頼りにしているGPSが消えてしまいました。電圧が回復すると、再びGPSが自動的に立ち上がるのですが、それには時間が掛かるし、再度、目標地点の入力を実施しなければ、航路が表示されませんから、入力を再実施していると、概ね、最初の目標地点(滑走路から16Kmくらい)は通り過ぎてしまっていますし、第2番目、第3番目の参考地点すら通過しているのに、まだ高度が充分に落とし切れず、あわてて高度を下げようとしますが、一方ではGPSの初期作動に疑問が残り、ローカライザー(VHF信号)は、正常に受信できています。
 そこで思い切って両側を山に囲まれた谷間に向かって、ローカライザー表示器を頼りに高度を下げると、眼下に集落が見えて来ました。


DME(距離表示器)が不作動なので、GPSのスイッチを切り替えて、滑走路までの距離を確認すると、概ね、2Kmも残っていませんが、まだ高度は随分残っていて、高過ぎます。そして、無事、着陸しました。
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 たった一つの、空港近くのホテルが満杯だと言うので、親切そうなレンタカーのおばさんに調べてもらったら、二つ先の村に、ユースホステルが在るということで、空港からバスに乗って、20デンマーク・クローネの運賃を支払って向かいました。  
丁度、到着した旅客機から降りて来た乗客の一部が乗り込んで来て、バスの乗客は、合計20名近くになりました。この大型バスで、諸島内の大部分を一周する様子ですが、私の 降りる停車所は3つ目で、10分位で到着だそうです。霧に包まれた山の斜面に造られた道路を、下がって上がって下がったら、素晴らしい入り江に、イケスが10個程、管理用の大きな作業船と一緒に浮かんでいました。これが噂に聞く、日本向けの鮭の養殖事業だそうです。こんなところで、この不思議な諸島が、日本と結びついているのですから、本当に驚きます。私の泊まるユースホステルは、このイケス群を、丁度正面に見る位置に建てられています。たった1Km先の海上ですが、それが、今朝は、霧の為に見えたり、見えなかったりの状態です。霧が晴れたら、私の出発の時です。
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 「鯨を食べたかったら、ファロ(エ)ー諸島に来て下さい。」と言ったら、一体、何人の日本人がこの諸島に集まるでしょうか。
記録によれば、1584年から、統計上は1709年から捕鯨の場所と日付があり、平均して年間850頭が捕獲されて来たようですが、1990年代には、950頭までに増加しています。果たして、それが伝統的な捕獲方法なのか、少しやり過ぎのスポーツ・ハンテイングなのか、明確ではありませんが、North Atlantic Marine Mammal Commissionによれば、調査捕鯨としての試みは、今後も続いて行くそうです。従って、世界でも例外的に認められているのが、このファロ(エ)ー諸島での捕鯨活動ということになります。夏場を中心として、一日平均2〜3頭の捕鯨が行われているという実態は、今日では珍しいことになりました。
鯨肉の好きな日本人にとっては、ファロ(エ)ー諸島が、更に身近に感じられる歴史的な捕鯨の実態なのでしょう。今後、脚光を浴びることは間違いありません。
何しろ、不思議な島です。こんな島々と関わりを持てるのも、フェリー・パイロットの特権なのかも知れません。ここに一週間位は滞在したい気持ちですが、親方は、いそいでドイツに担当機を届けるように指示していますから、私もオチオチしていられません。本日、燃料代と着陸料を支払ったら、スコットランドへ向けて、2時間余りの飛行をして、明日にはドイツに到着したいと思っています。多分、スコットランドに到着すると、ホッとすると思います。
ファロ(エ)ー諸島に情報は:
www.vagar.fo
www.visit-faroeislands.com
www.kunning.fo
等で見ることが出来ます。定期旅客便は、デンマーク本土・ノルウエー・アイスランド・英国などの複数の都市から、あるようですが、夏場だけの運航かもしれません。

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2008年7月22日(火)
16.不思議な島ファロ(エ)ーに着陸
7月2日
 本日は、ケフラビック空港近くのゲスト・ハウス(と言っても、民宿ですが)に2泊の予定で宿泊中です。理由は、アイスランド南方海上に低気圧が停滞していて、それが強い向かい風を造り出すので、短距離機には、なかなか厳しい条件を与えてくれますが、こちらとしては、気圧配置が変わるまで待ち続けることにしました。
 だいたいの目安として、700海里程を飛んでいる場合には、2日間待っていれば、天候は逆転してくれる様です。悪天候なら、じっとガマンをして、2日間も待てば、最高の気象条件で飛行できることもあるでしょう。
 今回のフェリーでは、アイスランドとスコットランドの中間に位置するファロ(エ)ー諸島のバーガー空港に立ち寄るか、どうかが一番の興味の中心です。
 たぶん、着陸する積もりなら、アイスランド側から、谷合を通過して、そのまま着陸することになるのでしょうか。日本相手に養殖産業で有名になりつつあるデンマーク領の諸島です。しかし、昨日の気象条件では、最悪の状況だった様です。明日までに、どの程度天候が回復してくれるか、それが気に成るところです。
 もし、高額請求書を突き付けられることを気にして、ファロ(エ)ー諸島に立ち寄ることを断念するなら、一旦、アイスランド東岸の空港で途中給油して、そこからスコットランドに向かえば、何とか、一気に洋上を越えられそうです。今回こそは、このファロ(エ)ー諸島から、ノルウエーのスタバンガー空港に向いたかったのですが、EU連合国への輸入手続きの為に、スコットランドで手続きをすることが決まったので、会社の指示によって、ノルウエー行きはキャンセルすることにしました。まあ、私としては、北緯67度まで昇って、北極圏入りを果たしただけでも、充分に満足できる内容でした。
 これから、現在の北緯64度のケフラビックから、ドイツの最終目的地まで、北緯48度を切る地方まで、一気に南下して行くことになりますが、それでも、北緯48度と言えば、北海道の北端近くに相当するのではないでしょうか。私が待機基地にしているトロント市でも、北緯45度ですから、相当に北に片寄っていることが分かります。とても、日本の常識では、考えられない北国の話です。
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 グリーンランド東岸の町、クルースクのホテルでは、2泊をガイというフェリーパイロットと一緒でした。私と同年代で、今回はクラシック機を飛ばせていますが、同行しているオーナーとは、不仲の様子で、不満をもらします。良く耳が聞こえない様で、たて耳のしぐさをします。元々はオランダ人で、テキサスに30年間ほど住んでいるそうです。何となく怪しい男です。自分でベテランだと言っていますが、中堅クラスのパイロットなのでしょう。  
 私の言葉が聞き取れないので、私の英語が下手だと決めつけている様ですが、本人の英語の方が奇妙ですし、耳が悪いのは、一見して分かります。私に対して、「無線通信上、英語が通じなくて困るだろう。」と言いますが、現実は、以外にも、彼の方に大きな問題があることを、翌日証明してしまいました。 
 いよいよ出発の朝、私の方が20分以上早く離陸して、彼の希望で、編隊飛行することに成りましたが、一向に、彼のクラシック機が離陸しません。私が上空で待機していることを管制官が教えても、返事もせず離陸しているので、私がすぐ後に付いて飛んでいる事も分からず、勝手にどこかへ飛んで行きました。その後、担当責任局が彼の機番を呼び続けても返事もしませんし、位置報告すらしていません。ようやく私が呼びかけて、中継し、担当責任局に報告してあげましたが、日本人に助けられた数少ないパイロットでしょう。

7月4日
 ファロ(エ)ー諸島は不思議な島です。デンマーク領ですから、バイキングが活躍した時代には都合の良い島だったのかも知れません。アイスランドから、デンマークに向かう途中に渡り石のような位置にあるから、貴重な存在感を示している様にも見えます。我々フェリーパイロットにとっては、長距離を飛べない飛行機に途中給油をさせるには、丁度良い位置にあります。  
 このファロ(エ)ー諸島の中にたった一つ、谷合にバーガー空港がありますが、年中霧につつまれる様な面白い空港です。両側の山を意識しながら、その間の谷をかいくぐる様にして、飛行機は高度を下げて進入して来ます。


 それは大変ドラマチックでもありますし、仮に着陸に失敗しても、そのまま空港を通り過ぎると、反対側の入り江に出て、そのまま洋上の広い空間に抜けられるので、危険な様に見えても、なかなか安全に計画されています。その実に微妙なコントラストとバランスが、操縦桿を握るパイロットには、たまらない魅力です。


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2008年7月16日(水)
15.私は醜いアヒルの子?

 カナダ東北端のIQUALOUTを、どう発音するのか分かりませんが、私の発音を聞いて、管制官が笑います。「イカルット」とも聞こえるし、「イキャルット」と極端に発音する管制官もいて、どうも最後まで馴染めませんでした。

 北緯64度に近いその町で、現地のイヌイット人女性が、「北緯69度を越える頃から、Mid-night Sunが見える。」と、自慢そうに話していました。私の少ない経験からも、北緯60度に近い辺りから、深夜でも充分明るく、野外を散歩するに全く支障を感じません。
 私は、今回初めて最も北極寄りの飛行ルートを選んだ為に、最大67度まで上がってみる事が出来ました。我々、日本の一般人が、こんな北極寄りの地方を訪れる機会はまずないでしょうが、昔はソ連邦領域内の上空に立ち入ることは出来なかった為、日本からヨーロッパに向かう国際線旅客機は、東南アジア回りの飛行ルートか、北極の真上を飛行する、特別な飛行方法が強いられたそうです。現在はロシア領域内上空も飛行出来るようになったために、かえって北極点真上を飛行するルートには、我々パイロットにとって親しみが無くなってしまった様です。
 しかし日本のNCA貨物航空会社は、アンカレッジを中継基地にしているようですから、もしかしたら、今でも北極点真上コースを飛行ルートとしているかも知れません。後日、昔の同僚に聞いて、確認してみるつもりです。聞くところでは、北極点上空では磁石式コンパスは役に立たず、INSという慣性航法で、高額な測定計算機を頼りにしていたそうです。

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 一流のプロ・ゴルファーとダッファーと呼ばれる下手なアマチュア・ゴルファーの、本質的に違う自己評価の方法は?一流プロは、一試合の中で犯した一打を悔やむが、ダッファーは、大叩きをしたコンペでの、たった一打のまぐれを取り上げて自慢します。この比喩は、いろいろな分野でも、プロの心構えとアマチュアの考えの甘さを比較する上で、同じではないでしょうか。
 昔、全日空の大キャップテンのジョークを良く聞かされました。ラスト・フライトの話題で、「その日にかぎって、どういう訳か、運良くうまく着陸できて、自分でも驚いた。」と。勿論、当時我々は、大キャップテンの意外な告白を聞いて、笑いましたが、誰も本気にはしませんでした。大キャップテンの余裕です。
 自分で、自分を褒めるアマチュア・パイロットで、本当にうまいパイロットに逢ったためしは、ありません。「本当は、私は下手なんですよ。」と言えるプロのパイロットが、一番上手なようです。余裕がなければ、言えない台詞ですよね。

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 北米と欧州間をセスナ・単発機ばかり空輸している私は、フェリーパイロットの中での「醜いアヒルの子」と思はれているのでは、と思うことがあります。私は、ちゃんとした白鳥の子と認識されるには、ジェット・パイロットをやって見る事が必要かもしれません。
 クラッシック機を英国にフェリーしているパイロットと数時間話し込んでいたら、テキサスにジェット機があるから、それを英国まで運んでくれないか、という話になりました。勿論、私の返事は決まっていて、何時でも受託します。様々な資格要件を求められますが、もともとジェット機の訓練から航空界入りしていますから、特に支障はないでしょう。話が進むよう願っています。
 それにしても、世界中からパイロットが集まる処では、全く多種多様なパイロットが寄ってくるものです。誰を信じ、誰を警戒しなければならないか、私にはとんと判りませんが、今は新参者のあひるの子の一人として、誰とでも交渉し、誰の仕事でも一度は受託してみようと思っています。

初夏の北極圏(2008年6月)こちら

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2008年6月23日(月)
14.短距離用セスナ機で大西洋横断を試みる

 ここは、トロント市内の格安料金のホステル415号室です。4階の中程、十畳程の広さの部屋に、二段ベッドが3セット並んでいて、一間幅のベランダ入口を兼ねた等身大の窓から、トロントタワーがよく見えるのが特徴です。その右下にドーム状の競技場、左手には高層ビル群が幾つか見えます。右手に眼を向けると、木立以外には、特に何も無く、空がどこまでも広がっている様に見えます。これが、トロントです。
 すぐ前に広がるオンタリオ湖が、乾燥した日中の寒暖差の大きい大陸性気候から、我々を守ってくれるので、快適な環境です。こういう地理的な優位性を読み取って、この地に落ち着いた先人の知恵は立派なものです。
 巨大な五大湖と大西洋を結ぶローレンス川を利用して、大型船を運航させれば、一度に大量の物資を安価に運べることは、今も昔も全く同じです。北米大陸のほぼ中央に位置するシカゴまで、大型船が入ってきます。
 南国宮崎県生まれの私は、昔から涼しい夏を過ごしてみたいという夢がありましたが、それが、今回こんな形で実現するとは思いませんでした。会社は、いつも中古機ばかりに乗ってもらって申しわけないから、なるべく私に新造機に乗ってもらえる様に手配すると云いつつも、今回も又、アマチュア・パイロットが放置して、帰国してしまった中級高額機を、南ドイツまで空輸することになりました。
今回の問題点は、整備上の不備ではなく、航続距離が短じかいために、最短のルートを継いで飛んでも、所々で能力ギリギリ一杯のコースがあり、少しでも向かい風が強いと、対岸の空港まで届かないことが予想されることです。ですから、少し時間が掛かっても、出来るだけ追い風を待って、その力を借り、何とか対岸の空港に辿り着くようにする飛行計画が必要です。
そして、少し遠回りになっても、最北寄りのコースを選んで、各空港間の距離が最も短くなるように、飛行ルートを選びますから、1500Km程は遠回りになります。
7月も近いというのに、まだ初春のような気候の北極圏に踏み込むコースを通って飛行するのが、今回のフェリー飛行の特徴です。多分白夜のような明るさの中を飛び続けることも可能ですから、夜の暗闇の飛行で感じるあの不安感は、其の分減るかも知れません。
明るいところを飛べるのは、パイロットにとって多くメリットがあり、安心感も増大します。また、北極圏内の方が気象は安定していて、飛び易いという考え方もある様ですから、其の点も、今回是非確認したいと思います。
先日母が亡くなり、会社も私に帰国を勧めてくれたのですが、夏の繁忙期でもあり、帰国しても葬儀に間に合わないので、二日間の特別休暇をもらって静かに過ごすことにしました。癌で余命2−3ヶ月と宣告されて、一年間よく闘って84歳まで長生きしてくれました。
今回の航続距離の短い機種で大西洋上を飛ぶには、様々な問題をクリアーする必要があり、それを考えるだけで二日間はすぐに消えて無くなりそうです。燃料切れで、途中で不時着することは、なかなか大変な事ですから、しっかりとした計画が必要です。

6月25日
 いよいよ7回目の(実質7.3回目)の大西洋横断飛行に出かける朝が来ました。エアーカナダ航空で、モントリオール空港まで行けば、前回フランクフルトまで同行したジョナサンが、310馬力のセスナ機で迎えに来ます。
 今回、私が乗務するのは、セスナ製カージナル機で、車輪が格納出来る見事に美しい単発機です。ドイツ人のアマチュア・パイロット2人が、カナダ・グリーンランド間を洋上横断出来ずに断念して、機体をグーズベイ空港に置いて、帰国してしまったものです。それを私が、フランクフルトの南のスタットガルトに届けるわけです。前回の日記どおり、飛行距離が短く、いつもの飛行ルートでは、増槽タンクもないので、多少の向かい風でも対岸空港まで届きません。向かい風に注意を払いながら、飛行ルートを北極圏寄りにして、洋上区間を短く出来るコースをとるべきかを考えながら、当日の風の状態を調べて、ルートを選びます。
従って、強い追い風が期待できる状況なら、ドイツ人アマチュア・パイロットの選んだ飛行ルートを、私が再挑戦することもあり得ます。今晩から、明朝の気象状況が大変気になりますが、ここトロントの天気は最高です。これが、千・2千Kmと離れていくと、そこは地獄のような嵐の中を飛行することにもなり得ます。これが長距離国際間を飛ぶフェリーパイロットの、一番大きな課題となる訳です。
フェリーパイロット希望で、日本から参加予定の、元コミューター航空機長は、現在ロス地区で、米国のパイロット免許取得の為の書き換え手続中ですが、FAA検査官の英会話能力テストに合格できるか気に掛かります。
寺原松昭
トロントにて

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2008年6月9日(月)
13.小型機フェリー中のリスク

 多分、戦闘機乗りなら、敵機来襲の瞬間が、身は引き締まり、一番恐いと思います。その点、民間機では、その機会は有りませんが、国際間飛行のフェリー・パイロットなら、時には戦闘機に追いかけられることは経験します。恥ずかしながら、私も一度だけあります。
 小型機パイロットが恐がるのは、積乱雲と機体の凍結(エンジンは、当然、凍結症状を示します)、それに目的地での着陸が可能かどうかです。何れも、雲が関係していますが、晴天乱流というのも有りますから、困ったものです。洋上のフェリー飛行では、燃料切れが最悪です。その点、大きな増槽燃料タンクを搭載しているとパイロットは大変安心です。しかし折角、増槽燃料タンクを搭載していても、途中の給油が不十分で、燃料切れを起こす珍事も起こります。
一般的な原因は、上空での極端な向かい風の強さが、予報を越えて、風が強過ぎた場合と、風向きの方角が異なっていたことが原因です。小型機は、元々速度が遅いので、極端に上空の風の影響を受けてしまいますが、高度も制限されています。追い風は、低速の小型機では、極端に速度が増えて、有り難いばかりのラッキーなことです。通常の半分近い時間で目的地に到着することも有り驚きますが、追い風が有れば、向かい風も有るので、笑ったり、泣いたりの、道中、悲喜劇が交錯します。
霧や雲は、パイロットの前方視界を遮って、肝心な滑走路が見えないままに、低空に降下して来ると、オロオロする原因に成ります。直ぐに、遣り直せば良いのに、何時までも低空に執着して、盲目飛行を続けていると、地上の建造物や自然の地形に激突します。だから、安全飛行の為には低空飛行を余儀なくされる離陸と着陸の経路近辺の地形も、大変、重要な要素に成ります。その為には、事前に地図を見て、周辺の地形を研究しておく必要が有りますが、最新のGPSは、地図の詳細部を、正確に再現出来ます。
それから、与圧設備の無い小型機の操縦席には、空気密度の減少という敵も有ります。要するに、高山病ですが、山登りなら、数時間も掛けて山頂に辿り着きますが、小型機では、30分以内に山頂の高度に到着し、そこから、一気に海面近くに降下して来ます。
小型機で上昇すると、空気密度が減少して、それに伴って、酸素の絶対量が減少しますから、頭の回転が悪く成ります。結果的に、足し算引き算が精一杯ですが、割り算掛け算は、次第に難しく成り、電卓が必要に成ります。要するに、突然、馬鹿に成るのです。パイロットが、飛行中に、上昇し過ぎて、馬鹿に成るだけなら良いのですが、馬鹿に成った結果、正常な判断が出来なく成りますから、本人が意識しないうちに、危険な操作をする様に成ります。例えば、触ってはいけないスイッチを、何気なく触ることも有ります。
つまり、通常は、富士山の高さ以上には上昇しない様にしていても、いつも厄介事を起こし、邪魔物の雲を避ける目的や、強い向かい風を避ける為に、それ以上の高度で、長時間飛行していると、自分の飛行を脅かす様な、危険な操作を行う様に変貌します。
この様に、様々な自然界の悪条件が加わって飛行しているパイロットを、都度、脅かす条件が加わって来ると、孤独なパイロットは、次第に絶望の淵に追い詰められることに成ります。そういう境遇に立たされない様に、早期に転換し、安全飛行を確立する必要があります。 
寺原松昭

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2008年5月11日(日)
12.ターボ・デイーゼル機でオランダへ

4月22日
“モントリオールを20日に出発、グーズ・ベイ経由で一気にグリーンランドのナルサルスアークまで飛んできました。ターボ・デイーゼル機は順調でしたが、今の季節北極圏特有の強い東風が治まるまで、ここで待機が必要となりました。地元の天気予報によると、アイスランド方向に飛行出来るまでに、数日かかるようですが、原因となっている洋上の低気圧は、アイスランドの次の中継地ウイックの方向に進んでいるようです。あせらずに、春先のグリーンランドの写真を撮りながら待ちます。”
4月23日
 “先月ホテルで出合ったドイツ人パイロット二人と、多国籍の軍隊上官達の大きなグループに出会いました。軍人達はこの辺鄙なグリーンランドで一体何をしているのか、ちょっと不気味に感じます。ヨーロッパ諸国・ロシアと中国の軍人達で、アメリカ人も日本人も見かけません。”
4月25日
 “アイスランドの首都圏ケフラヴィック国際空港に到着。レーダー誘導で降下に移る直前にジャイロ式羅針盤が故障したが、幸い積雲をクリアして、ILSシステムにより目視で無事着陸しました。
残り燃料は、あと10−20分のみの危ないところで、ヒヤッとしました。グリーンランドからの全工程に亘り、春特有とはいえ予想外に強い向かい風は、予報がいつも信頼出来るとは限らないことを示しています。”
4月26日
 ケフラヴィック国際空港のFBOがレンタカーを手配してくれたので、レイキャビック市内まで走ってみました。距離にして、片道50キロ位でしょう。道路は、走り易くスピードも120キロ位は、女性でも出せる様です。スピード違反の取り締まりも有りますが、毎時90キロが、制限速度の様です。
 交通量は少なく、私は、慣れないデジカメを片手に、もう一方の片手で運転しながら前方の道路事情を撮影しました。レイキャビック市内の突端は、高級住宅地を過ぎると、広い公園の様な空き地から先が、岬状に成っていました。

その先に、灯台も在りますが、そこから見える遠くの対岸の景色は、完全な自然の山々だけで、人工のモノは何も在りません。アイスランドの首都の在る都市部から、その対岸には、人間社会から完全に隔離された様な大自然が見えるという奇妙なコントラストが、まるで嘘の様な国です。
  市内の建物も、他のヨーロッパ諸国並みに、古い時代の豪華な造りの建築が多く、そこに近代的な高層アパートが美しく立ち並ぶところが、レイキャビック市内の特徴です。市民の姿は、各自が個性に溢れ、漫画の中でしか見たことの無い様なコスチュームと髪飾りを付けた女性も普通に歩いていました。
 私は、2軒在るという日本レストランの中の一軒を繁華街の中心に見つけて、中に入って見ました。狭い店内には、多少閉口しましたが、それでも、地元女性の握るサバの握り寿司に合格点を与えることが出来ました。案の定、日本人らしいお客に見える私の評価を気にしていたので、褒めておきました。
 レイキャビック空港は、国内線専用の小さな空港ですが、精々30万人の国民にとっては、充分過ぎる大きさでしょう。私は、空港ターミナル脇を通り過ぎて、小型機専用のパイロットスクールのある仮設プレハブを訪れて、現地の老練教官や整備士達と、3時間ほど世間話で過ごしました。
4月27日
昨夜、パブでスコッチを飲んで、すっかり寝込んでいた私は、ホテルの電話で起こされてロビーに出て行ったら、高級飛行機専用のフェリーパイロットが、空輸の同行者と共に私を待っていました。夕食を誘いに来たのに、私は、外出中だった様です。
 顎鬚を生やした同行者の笑顔は優しく、簡単な挨拶を済ませて、お互いの健康を確認したら、翌日、早朝にケフラヴィック国際空港で会う約束をして、彼らは夕食に出掛けて行きました。私は、部屋に帰り、また、一眠りをして翌日の飛行に備えました。
 早朝に目覚めると、そのままレンタカーを運転して、空港に向かいました。
アイスランドからスコットランドへの中央地点を過ぎる頃、2時間遅れて空港に到着した筈の高級飛行機専用のフェリーパイロットの高性能機に追い越される筈です。予定コースの中央地点を過ぎる頃、無線を注意して聞いていましたが、該当する機体の無線交信は聞こえませんでした。ようやく、英国領に入って、スコットランドに到着する1時間ほど前から、それらしい高速機が、交信して来ました。
 私は、速度が200ノット以上というその高速小型機に先を譲り、2番目に着陸しょうとして、追い越される時に、眼下を通過するその機体を見たら、それは、タービン双発機でしたから、昨夜の友人の操縦する筈の高級タービン単発機とは、違っていました。
 順番を譲って、2番目に着陸すると、既に着陸して、顔見知りのFBOが大きなトラックから給油していたそのタービン双発機から、ゾロゾロと4−5名の裕福そうな同乗者が降りて来ました。どうやら、強いユーロを持つ、フランス国籍の個人所有機の様です。

ジャイロ式羅針盤が不具合のままアイスランドから飛んで来たのですが、 元管制塔だったというFBOの事務所に入ると、社長のアンドリューが握手 を求めて来ました。確か、事前の連絡では、彼は本日休みの筈です。それが、 わざわざ出勤して来るとは。案の定、「飛行計画は提出してあるから、一休み したら、30分後に出発をする様に。」と、私に云います。完全に、機長の権 限無視を断行したい様です。お昼過ぎに到着して、そのまま宿泊ホテルに向 かうのも早過ぎますが、寝耳に水です。
どうせ、抵抗しても無駄の様ですし、英国人の気質も分からず、私は、こ こで恩を売って置きたいと思いました。云われたままに資料を持って調べる と、相当な悪天候の様ですが、本当に気象が悪いなら、引き返してから文句 を言うのも一法です。飛ぶ前に、あれこれと文句を言うのは、説得力が有り ませんから、一旦飛んで行って、しばらくして引き返せば燃料代が嵩むので、 文句を言えば、説得力も効果的に相手を苦しめる筈です。つまり、「燃料代を 弁償しろ。」とも、強く云えるかも知れません。
幸いスコットランド地方は、現在のところ天候は良好です。2−3時間か後に、ホッとしているところを、私が引き返して来れば、アンドリューのショックも倍増される筈です。そうなれば懲りて、今後二度と機長の権限を無視する蛮行は止みます。デイーゼル・セスナ機を離陸する為滑走路へ向かうと、1機進入機が数マイル先から着陸の為に近づいている様です。しかし、時間は充分です。最大出力にデイーゼル・エンジンを作動させて、離陸開始しました。滑走路13番から離陸して左旋回です。 左旋回後に、一旦、ノルウェー南岸方向に向かって、2時間飛び、それか ら、南東に飛ぶと本日の最終目的地です。高度9,000フィートに上昇し て、巡航に入ると、すっかり、予定通りの雲の間に入りましたが、これが、 上下から、次第ら私に迫って来ます。しばらくすると、後方を除き、完全に 逃げ場の無い状態に成り、雲に囲まれた状態に成りました。しかも、湿度の 高い雨雲ですから、外気温次第では凍結も起こります。マイナス3度からマ イナス4度くらいですから、いつでも凍結は起こる条件に成っています。 すると、左燃料タンクの換気用パイプに氷が付着する様に成りました。あ っという間に氷の塊が大きく成ると、その塊が大きな空気抵抗を生むらしく、 パイプが幾分後方に撓っています。これでも、時速200キロの速度は有り ますから当然の結果なのでしょう。
私は、それ以上凍結が増大しない様に、高度を少し上げる為に、ノルウエ ーの管制センターから許可を貰いました。少し高度を上げると、幸いにも、 雲の上ギリギリの高度に成りましたから、時々は、雲の中から出られるので安心です。その内に、完全な雲中飛行と成りました。もう、出発して、3時間に成ります。此処まで来ると、今更、スコットランドに引き返す気には成れません。もう完全に気持ちは、デンマーク西海岸の都市に向かっています。それにしても、相変わらず、よく揺れます。
 デンマークの管制センターが、目的地への細かい指示をくれる様に成りました。それを、毎回、GPSに入力して行き、迷子に成らない様に、コースを確認しています。高度を3,000フィートに落とす頃には、海岸の概要も薄く見えて来ましたが、予想外れです。つまり、昨日、地上で地図を見た時は、北方向を、上にして地図を見ていたので、海岸線は斜めに見えましたが、本日は、その海岸線に正対して横切るコースを飛んでいます。すると、全体的にイメージが大きく変わるので、海上港の向きが昨夜と違います。
 折角、湾内の港の形を確認したかったのに、私の進入コースからでは、その肝心な港の形状を確認できない北部側のみを通って空港に進入することに 成ります。しかも、「空港が見えるか。」と、聞いて来ましたから、きっと、見つけ難い空港なのでしょう。
最終左旋回を都市部の上で実施して、GPSの地図を頼りに、その方向を見ると、未だ、空港らしきものは見えて来ません。仕方が無いので、ILS進入無線施設を頼りに高度を落として行きました。すると、滑走路らしきものが見えて来ましたが、横風でした。強い横風を受けると、滑走路の方向に合わせるのが、なかなか大変です。ローカーライザーコースを外さない様に慎重に進入をしながら、進入降下角が狂わない様に必死です。小型機の軽い機体は、風の強弱に合わせて、木の葉の様に揺れています。
 やっとのことで、観客が居たら、多少赤面気味に気に成る様な着陸の後に、地上管制官の指示に従って格納庫の裏の様なところに到着しました。その小型格納庫の中から手を振っている紳士は、手配された通関業者です。指示された位置に停止出来ました。
 「ハ-ウドウユドウ。」と挨拶をすると、名前はアンデルセンだそうです。どこかで聞いたことが有ると思っていたら、有名なデンマークの童話集の名前と同じでした。「それなら、覚えられるかも知れない。」と、咄嗟に思いましたが、最後まで呼べませんでした。
4月28日
エスブジャーに到着。デンマークの西側にある美しい湾と港のある都市です。午前中は休息して、午後は一気に最終目的地のオランダ・テーグ空港着。
“デンマークの西側からオランダの西まで低気圧がはびこり、積乱雲も発生している中、南北に伸びる前線方向からの進入・着陸に、空港スタッフは驚いたようです。しかし、これはデンマークもオランダも低地だから可能だったのです。”
テーグの飛行学校には、300名のパイロット訓練生が居る、と近くの駅まで車で送ってくれた整備士が云っていましたが、到着したのは、実に小さな飛行場でしたし、300名の訓練生が訓練を受けるには50機以上の訓練機が必要ですから、私には、盲目的に、鵜呑みにする他信じ難い数です。
 勿論、他の飛行場にもパイロット訓練施設が在ると云っていましたが、私が確認した訳では有りません。パイロット訓練生の多くは、ドイツ人の訓練生が殆どだといっていましたが、オランダで訓練を受けることに、何か、特別に大きなメリットでも有るのでしょうか。
 しかし、もしそれが本当なら、日本の航空大学校の規模の4倍以上の大規模な飛行学校で、世界的にも大変巨大なパイロット訓練学校ということに成ります。まだまだ、今後も、大量にセスナ機を購入するという希望を持っている様ですから、当然、今後も何度か訪れることに成りそうです。  

 “ここテーグからアムステルダム経由ですぐトロントに戻ります。そして5月上旬に2週間の休暇をとって日本に戻ることにしました。他社からのフェリーの仕事依頼もあって、このチャンスを逃すと多忙な夏季に休む暇はなさそうですから。”
寺原松昭自記(“”部分のみ元山編集)
カナダ・ヨーロッパ間春先のフェリー飛行写真よりは
こちら

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2008年4月25日(金)
11.新コンセプト機のテスト・パイロット役

4月14日
 アメリカ人フェリー・パイロット達−次の空輸セスナ機を引き取るべく、すっかり春になったモントリオールに来ています。ロンドンからカナダに戻ってこの一週間、色々な事が起こりました。
まず、ドイツへの次のフェリー飛行予定が、急にターボ・デイーゼル・エンジン搭載のセスナ機に変わりオランダに飛ぶことになりました。これはジェット燃料を使用する新しいコンセプトのセスナ機で、無論日本にはまだ輸入されていません。 (
http://se.cessna.com/skyhawktd/
skyhawktd_brochure.pdf

また、近い将来アフリカへのフェリー飛行の可能性も出てきて、胸躍る毎日です。早速いい写真を撮るべくデジカメを購入しました。                
当初、二人の若いアメリカ人フェリー・パイロットが米国メイン州バンゴア空港からモントリオールに飛んで来ることになっていて、チャイナ・タウンで一緒に夕食をするのを楽しみにしていました。一人は当初私が飛行するはずだった新品のセスナC172S機で、もう一人のジェイソンはターボ・デイーゼル機を私に届けるためでした。それに合わせて、私はモントリオール入りしたのですが、まず二機ともバンゴアを飛び立ったものの、凍氷の問題が起こり引き返しました。パイロットの一人は経験が浅かったので、彼らに、「私は五月末まででも待つから無理をしないように。」との連絡を入れておきましたが、翌日は再飛行を合意したものの、今度はジェイソンがターボ・デイーゼル機の操縦を嫌って、キーを机に置いて家に帰ってしまったのです。
 アメリカの若いフェリー・パイロット達は、新技術が使われ不慣れで扱いにくいような新型機を好まないことが多いようです。(もっとも日本の若いパイロット達には、其の傾向がもっと強いのですが。)ましてや、大西洋を敢えて横断飛行するような若いパイロットなどは皆無のようです。
ちなみにこの新型セスナ機のデイーゼル・エンジンはドイツで開発・生産された、最新のジェット・エンジンには広く採用されているフル・オーソライズド・デジタル・エンジン・コントロールを採用していて、使用するジェット燃料はガソリン・エンジン用の燃料より安く、しかも燃料効率が良く安全性も高いのです。新技術に対して、試す前に拒否するようなこの姿勢では、パイロットとしての技能の成長は望めないと思うのですが、それが若い北米フェリー・パイロットの現実のようです。
 無論アメリカには、先に着水事故で死亡したジェフ・フィラーのようなすばらしいフェリー・パイロットは多くおります。彼について私は、もしかして、死ぬ気だったのではないだろうかと思うことがあります。「多くの洋上飛行の経験を積んだ、この業界の中では、優秀なパイロットだった、と、今でも、彼のことを称える人は、多く、居る様です。フッと、優秀なパイロットに、間が射す瞬間があるかも知れない。過去の2年間以上、彼は、無事に難関を乗り越えて来ただろう。その彼が、そう、“今、死んでも良い。”と、思う様な不思議な瞬間、これまで全ての障害を乗り越え、才能を惜しげも無く発揮して来た時に感じるパイロットの脳裏に浮かぶ考え。
 仮に自殺であっても、日本の例と違い、凡そ、5億円にも上る膨大な生命保険金は、ジェフの家族に支払われる。過去2年間で、100回の記録的な、大西洋横断飛行を成功させた優秀なパイロットが、約3、500万円を稼ぎ、そして、その家族に、更に、5億円の生命保険金を残した。
 勿論、私には、その当人である、ジェフの不遇な事故の真実が分かる筈も無いのだが、多分、優秀な人間だけが持つ、優秀な人間だから持つかも知れない、精神的なある種の弱み、そういうものが秀でた才能を持つ人間には、きっと有るに違いない、と、私は、常々から勝手に思っている、のである。」
(「」部分寺原自記)
4月16日
日本人テスト・パイロット−そんな訳で、アメリカ人フェリー・パイロットが避けるような、新しいコンセプト機のテスト・パイロットを兼ねて、日本人の私が大西洋横断飛行を試みることになりました。彼らはどう感じるのでしょうか。自国民パイロットが避ける自国製の飛行機で、日本人が敢えて大西洋横断のテスト飛行するのですから。日本の友人は、「何故そんな冒険をするのか?」と聞いてきましたが、私はプロとして新技術を拒否する前に、まず試してみます。
まずはモントリオールからカナダ北東端のグーズベイまでの飛行、そこで北大西洋横断をすべきかどうかを決めます。北米では、日本と違い、パイロット同士の交信が自由・活発で、新技術の安全性・注意点などのインプットも簡単に入手出来ますし、新型機の到着後には時間をかけてマニュアルなどの勉強・準備も十分出来ます。
4月18日
新コンセプト機でオランダへ−新型ターボ・デイーゼル・エンジン搭載セスナ機がモントリオール空港に到着しました。実際には2001年モデルの機体に、新型のドイツ製エンジンを搭載した試作機で、G1000グラス・コックピット等は装備されていませんが、今年の秋にはセスナ・エアクラフト社で量産される新型機と同じです。モントリオールの天候は4月に入って安定しているし、明後日にはまずグーズベイに向けて飛行する予定です。

飛行ルートはグーズベイ→クジュアック(カナダ)→イクアルート(カナダ)→ヌーク(デンマーク・グリーンランド)→クルスーク(グリーンランド)→ケフラヴィック(アイスランド)→ウイック(スコットランド)→エスブジャー(デンマーク)経由で、最終目的地のオランダへ。本部の許可がもらえれば、今回は、北緯66度を越えて、北大西洋横断の最北ルートを飛行してみるつもりです。

(以上寺原松昭氏のメール日誌を翻訳・編集:元山芳彰)

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2008年4月 15日(火)
10.神秘的な冬の北極圏

3月28日
 モントリオールの宿は旧市街の港近くにとりました。私は、個室より隣の客との境に壁の無いようなホステルを好みますが、古い石作りの建物と石畳の街に良く似合う佇いで、ホステルのレストランもしゃれた石作り。街全体が古いヨーロッパのよう。チャイナ・タウンもあるが、言葉は勿論フランス語ばかりです。
 明日は雪で空港が閉鎖されないかぎり、いよいよ約一ヶ月ぶりに操縦桿を握ることになります。これだけ間を空けるのは、パイロットとして一般的には問題ですが、私は北大西洋の気候状況と地理にも過去2回の横断飛行で慣れてきたので気に掛かりません。夏季ならヨーロッパまで一日で一気に飛行も可能だし、2日掛けるつもりであれば十分余裕があります。グリーンランド沖で墜落死(?)した仲間のジェフは2年間で100機を欧州に空輸していました。最初にバンゴールのホテルで会った時の印象は、自信に溢れた有能なベテラン・パイロットでした。スロー・スターターの私は、少しずつペースを上げて毎月2回・年48回を目標にします。
 今回空輸のセスナ・スカイレイン機は230馬力エンジン搭載の高性能新型機(
http://se.cessna.com/2007seallmodel.pdf)です。私が通常空輸する180馬力のスカイホーク型の95−110ノットに対して120−140ノットのスピードが出ます。小型飛行機でこの50馬力の差は、緊急時などの必要な時には170パーセント位の性能差を意味します。
3月30日
 銀行での必要通貨準備に時間がかかり出発が遅れましたが、本日のモントリオールは快晴、ニューファンドランド州グーズ・ベイの天候も上向き、16時に出発して7−8時間の飛行で、グーズ・ベイ到着は夜明け前の予定です。
グーズ・ベイからグリーンランドのナルサルスアーク、アイスランドの首都ケヴラヴィーク、そこからスコットランド北端のウイック経由でロンドンへ飛行します。ロンドンで数日滞在して、カナダに戻る全工程約一週間の旅です。(モントリオールにて寺原松昭)
4月4日
 ロンドンの小さな空港に到着。新品のセスナ・スカイレインの配送完了で、6日にカナダに帰ります。スカイレインでの飛行は快適そのもの、トヨタ・クラウンでのドライブといったところでした。ケヴラヴィーク空港手前では、亡くなったジェフのことを思い出し、冥福を祈りました。
ところで、ナルサルスアークに残したセスナの故障機は、パイロットがアイスランドまでは空輸したものの、メインテナンス上の問題があり、その修理をオナーが了承しなかったので、パイロットはそれ以上の飛行を拒否して帰国したそうです。これは北米では、フェリーパイロットの権利です。ちなみに彼らには、5百万ドルの事故死保険がかかっています。日本の命の相場とはかなり違いますね。(ロンドンにて寺原松昭)
4月6日
 トロントの季節は春。すっかり陽気も良く成り、怪物の様だった積雪は街路からすっかり消えてしまって、何処にも雪が在りません。その急変振りには驚きを隠せませんが、私は6週間以上も留守にしていたのです。その間に様々なことが起きて、私は3週間以上もグリーンランドで上司を待ち、結局彼は現れず、私が小型ジェット機に便乗して、セント・ジョーンズ市に上陸することに成り、そして1週間が過ぎました。
 その後、第4回目のフェリー飛行は順調でしたが、何故か冬季は常に追い風の飛行コースで、向かい風ばかりを受けて飛行、しかし肝心なアイスランドから英国迄の飛行コースは追い風でした。
 さて、これからはどんな季節が、どの様な気象変化をもたらし、我々フェリーパイロットを苦しめるのでしょうか。それは、この大西洋を生まれながらに知り得ない我々日本国民にとっては、どうしても最大の関心事に成るのでしょう。果たして日本の様な顕著な四季は、この海洋を囲む土地に有るのでしょうか。(トロントにて寺原松昭自記)
4月8日
 春を愛しむ日本よりも、ずっと春らしいのが、カナダの自然の包容力と不思議さ、でしょう。毎日が益々楽しく成りました。この、行楽日和の中で、真っ盛りの春を感じながら、セスナ機に乗るのは、そこから見える風景の素晴らしさを考えれば、生死を掛けた仕事と言うより、今では、むしろレクレーションに近い楽しいものです。多分、他のどのパイロット職よりも優れて、世界中を次々に連続画像の様に低空で飛び回る空輸パイロットの方が、最も美しい春の自然を満喫しながら、心行くまで楽しい飛行が楽しめる毎日に成りました。(トロントにて寺原松昭自記)

カナダ・ヨーロッパ間冬のフェリー飛行写真より はこちら

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2008年4月 7日(月)
9.小型ジェット機でグリーンランドからカナダSt.ジョーズへ

3月22日
 昨日St.ジョーンズ国際空港に到着し、市内の漁港近くのホステルに宿をとりました。ヒッチ飛行した小型ジェット機は、グリーンランドで採掘プロジェクトを推進しているらしいカナダ鉱山会社のチャーター便でした。Narsarsuaqからカナダ・ニューファンドランドのGander空港経由で、カナダに休暇で戻る3人の鉱山会社従業員と一緒でした。途中天候は良くありませんでしたが、パイロットは腕の確かなナイス・ガイでした。St.ジョーンズに住んでいるそうです。
 カナダに戻ったら、まずは次の仕事の段取りです。ここSt.ジョーンズかモントリオールに空輸されてくるセスナ機を来週中頃にピックアップして欧州までの空輸です。それまでSt.ジョーンズとモントリオールで自由に過ごします。 
St.ショーンズはヨーロッパからアメリカ大陸への入口として5百年の歴史を持つ人口17−8万の美しい港町です。昔は北大西洋の豊かな漁場を目
当てに世界中から集まってくる漁船の基地として栄えたようですが、今は静かな街に見えます。街の人によると間もなく日本からも漁船が入港するようです。小型飛行機のパイロットにとっては、北米大陸北東の端に位置するこの街はヨーロッパへの中継空港として、同じカナダのニューファンドランド・ラブラドール州にあるGoose BayやGanderと共に重要な中継基地の一つです。丘と山に囲まれた港を散策しましたが、北海道の釧路を連想します。
 ニュ−ファンドランド島は九州より大きな島で、付近にはフランス領の小島が幾つもあるそうで、カナダとヨーロッパの長い歴史的なつながりを感じます。日本食レストランも街中にあるようです。私と同じホステルに滞在しているカナダ人漁師が色々と教えてくれました。
 カナダの大都市やニューヨークからSt.ジョーンズへの飛行機便はありますが、運賃は安くなく遠洋漁業の乗組員かそれこそ北米のフェリーパイロットでなければ、特に日本からはなかなか訪れにくい地域でしょう。自然の魅力溢れる州に違いないですが、それを満喫するチャンスは今回ありません。
3月27日
次の仕事は、今日モントリオールでセスナ機をピックアップして、空輸先はロンドンと決まりましたが、ルート・日程は未定です。早速St.ジョーンズ空港からProvincial航空で出発し、モントリオール空港着。まず銀行で仕事に必要な経費用資金の受け取りと経由国毎の通貨に必要額の換金手続きを行う。通貨が全部揃うのに数日かかるので、その間モントリオールに滞在して待ちます。フェリーパイロットにとってやっかいな問題の一つです。
新型高性能セスナ機−空港でセスナ機とキーを受け取る。今年1月に生産されたばかり新品セスナ・スカイレインで、ロンドン迄の約一週間は、私のものです。どうして所有者が変わるのか分かりませんが、発注してから手元に届くのに2年かかるセスナ機には、珍しいことではありません。ニューヨークの小さな空港から操縦してきたのは、ある米航空会社のB777の機長とその大学生の息子で、彼もまたパイロットライセンス(PPL)を持っていました。
 機長のボブは、大変この新品のセスナ機が気に入ったようでした。
「G1000グラス・コックピットには慣れていますか? 私は、B777(同じグラス・コックピットが装備)を毎日操縦しているので慣れていますが。」
「まあ、大丈夫でしょう。」
息子が父親と一緒の飛行に満足げに、「私には初めてで、操縦中分からないことが多くて困りました。」
ボブが、「この機で、本当に大西洋を渡るのですか?」
「出来たらね。」
ボブ、「フェリーパイロットはかっこいいね。」
そう云って、ボブは私と3回目の握手をして、二人共微笑みながら楽しそうに空港のFBオフィスを出て行きました。定期便でNYへ帰るそうです。
 ところで、このような対話、日本ではありえないでしょう。気さくなアメリカ人の国民性もあるでしょうが、日本では民間機のパイロットのような高い評価を一般のパイロットは受けていないからです。アメリカでは、民間機パイロットより高い年収を稼いでいる一般パイロットは沢山おります。たとえば会社所有機のパイロットの年収は、一般に民間ジェット機パイロットよりかなり高いのが普通です。

カナダ・St.ジョーンズ及びモントリオールにて
寺原 松昭
(寺原氏から友人宛のメール日記を翻訳編集。)

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2008年3月31日(月)
8.グリーンランド脱出、ニューファンドランドへ

3月17日
故障しているセスナ機のエンジンAlternatorを取り外してみたら、内部に金属片が見つかりました。金属片が残っていると、飛行中にシリンダーとバルブを傷つける可能性があるので、Alternatorと一緒にオイル交換も必要です。せめて他にフェリーパイロットが居てくれれば、修理作業を助けてくれるのですが−それが我ら同業者の慣はしです。
3月18日
Narsarsuaq滞在も4週間目。本部から、今度はカナダへ向かう航空機があれば、ヒッチ飛行で戻るようにとの連絡がありました。しかし、今の季節、その可能性はなさそうです。春になってもここに居るかもしれません。先日ドイツからNarsarsuaqに飛行してきたフェリーパイロットを含む3名のパイロットに出会ったのですが、もう去ってしまいました。
あとの2人はビジネスマンでアマチュアパイロットで、彼らとは一晩ホテルのバーで一緒に酒を飲み(私は飲みすぎましたが)、大戦中350機以上の敵軍戦闘機を撃墜した旧ドイツ空軍戦闘機英雄パイロットの話から、当時ドイツではどんな飛行訓練がなされていたのか等にも話が及びました。パイロットとしては、小型機の飛行技術訓練の面からも、非常に興味ある話題でした。
私は、ドイツ人がパイロットとして最も適性があると信じています。二十数年前にドイツの片田舎で見たパイロットの操縦にしろ、テキサスの有名な飛行訓練学校で出会ったずば抜けた才能を持っていた若いドイツ人女性の訓練生も、未だに強い印象が私の脳裏に残っています。日本人には同じような適性が有るとは思えません。今回Narsarsuaqで出会ったパイロット達にしても、その翌日フェリーパイロットはアイスランドへ飛び立ち、一人のビジネスマンは新品のCR22機エンジンの調子が良くないと滑走の途中で引き返して、その機を空港に置いたまま、さっさと別の飛行機で二人一緒にコペンハーゲンに飛び立って行きました。彼らの離陸の様子を見ていても、あの何のためらいも感じないような決断の仕方からも、彼等もまた優れたパイロット達に違いありません。
3月19日
 本部からの連絡で、イースターホリデー(23日)後に交換部品を搭載してメカニックがNarsarsuaqに来てくれるそうです。しかし、誰が今の故障セスナ機を操縦するのだろうか?また私だろうか?
 日本から夏の間1週間のグリーンランド行きパッケージ・ツアーがあるようですが、7-80万円はかかるそうです。私は4週間近くで、3百万円の観光旅行をしたことになります。しかし、ホテル滞在費は4500jを越え、本部から直接払い込んでもらわないとNarsarsuaqからの脱出は出来ません。
3月20日
 話は二転三転し、カナダ鉱山会社のチャーター機が数日中にNarsarsuaqに鉱山専門家を乗せて来る事が分かり、結局その小型ジェット機に乗せてもらう事になりました。故障機はカナダから到着予定のメカニックに任せて置いていきます。本部は私の安全を最優先で考えてくれました。
3月21日
明日はカナダに戻れます。美しいグリーンランドもホテルのデンマーク語の古いPCも、しばしの別れです。欧州の帰りにロンドンに立ち寄り、そこから列車でスコットランドの北端の小さな空港Wick経由でカナダに帰る休暇を兼ねた計画も、当分お預けとなりました。
行き先は、セスナ機で飛び立ったGoose Bay空港(カナダ空軍基地だが小型民間機の使用可能)ではなく、同じカナダ東北端のニューファンドランド・ラブラドール州にあるSt.ジョーンズ国際空港(地図下部の右端)のようです。
次回はラブラドール・レトリバー犬の故郷からメールします。

デンマーク・Hotel Narsarsuaqにて
寺原 松昭

(寺原氏から友人宛のメール日記を翻訳編集。)

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2008年3月24日(月)
7.長引くグリーンランド滞在と仲間機の墜落?

3月8日
 当分Narsarsuaq空港のホテル滞在になりそうです。故障したセスナ機の修理が出来るメカニックはこの空港には滞在しておらず、交換部品が空輸されてきたら自分で交換修理して、アイスランドまで飛び、そこで安全性などの正式検査を受けてから、さらに欧州本土へ飛行するのか、メカニックにNarsassuaqまで来てもらって修理をしてもらうのか、それと自分はどうするのかなど本部からの指示待ちです。今の季節定期便などないだろうし、部品空輸には本部がチャーター便を飛ばす以外になさそうです。

この空港の危険度は非常に高く、特に今の季節に好んで飛んできたいパイロットは居ないだろうし、着陸料も千二百ドルと決して安くない。いずれにしても本部の指示待ちですが、私がこのへんぴな地で釘付けになっても文句を云わないのが、本部は不思議に思っているようです。
3月9日
同僚パイロット機の墜落?−去る2月13日アイスランド沖合いで、同僚のアメリカ人フェリーパイロットが1968年製Cessna310Nで、私と同じGoose Bayから飛び立ち欧州へ飛行中北大西洋で消息を絶ったとの連絡がありました。アイスランドの飛行管制局に雷雨の中を9千フィートの高度で飛行中、ひどい凍結が起き緊急着水を試みるとの報告を入れた直後に連絡が途絶えたそうです。サーバイバル・スーツは着用していたようですが、救命用ゴムボートを搭載していたかどうかは不明で、厳しい冬の北大西洋では、生存の可能性は非常に低いでしょう。その双発飛行機は私が飛行する予定でしたが、そのパイロットが上司に頼んで自分で選んだのだそうです。 今の私には彼の生存を祈ることしか出来ませんが、わが身にも降りかかった事故を思い出すとぞっとします。会社にとっても、この事故と我が機の故障は大きな衝撃であり、今後の空輸計画は見直されると思います。折しも、Narsarsuaqで出会った2人のフェリーパイロット達は、北大西洋上は高性能機かターボプロ単発の高性能機でしか飛ばないと言っていました。私のような単発のセスナ機で飛ぶような無茶は絶対にしないそうです。私をジェット機専門の空輸会社に推薦するから、そこに替われと言っていましたが、今の仲間とチームを一度組んだ以上、日本人として今更そんな事は出来ません。

3月10日
素晴らしいグリーンランド−ところでもう一度グリーンランドの話に戻りますが、Air Greenlandの大型ヘリコプターS61のパイロットによると、ここNarsarsuaqの住民は現在80名で、私は81人目だそうです。空港の近くには、冒険家植村直己さんの記念碑(1978年夏グリーンランド2千6百キロ横断)があり、彼が案内してくれました。グリーンランドの北端の町には、一人の日本人女性が30年前から住んでいるそうです。驚きです。夏にここを訪れる際には、是非その町に行ってみたいと思います。
 日本からの観光客は非常に少なく、夏場に限られているようですが、この美しいグリーンランドについてのWEBサイトをいくつか紹介しておきます。
http://www.greenland-guide.gl/reg-qaanaaq.htm
http://www.geocities.com/TheTropics/Resort/9292/usqaanaaq.html
http://www.scantours.com/Greenland.htm

3月11―13日
 同僚のフェリーパイロットBillyが、セスナ機で明後日メイン州のBangorから交換部品を搭載してNarsarsuaqに到着するとの連絡が入りました。しかし、彼はジェット機のパイロットでピストン・エンジン機操縦の経験はなく心配です。
 新しいAlternatorが到着次第、自分で交換しエンジンのオイル漏れがないかチェックしてから、アイスランドのRaykjavic(旧米海軍空港基地だった国際空港)に飛びます。そこでFAA(米国連邦航空局)の承認を取ってから、更に欧州へ飛ぶつもりです。
 Narsarsuaqのようなメカニックが常駐していない辺境地の空港では、FAAのルールで、フェリーパイロットが自ら簡単な修理は出来るようになっています。勿論、私がメカニックとしての経験があるから修理は可能ですが、一般のパイロットでは出来ません。
 3月15日
 今日は一日中冬の嵐、滑走路上は秒速30メートルの突風が吹き荒れていました。当然部品の到着は遅れます。カナダとNarsarsuaq間を2週間ごとに往復する、カナダ鉱山会社の小型ジェット・チャーター便があることが分かりました。私の部品空輸は更に後れ、それで送られてくる可能性があります。

Hotel Narsarsuaqにて
寺原 松昭
(寺原氏から友人宛のメール日記を翻訳編集。)

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2008年3月17日(月)
6.グリーンランドで緊急着陸

2月22日
 今日から中古のセスナ機でブルガリアに行きます。今回が山場でしょう。修理が終わったと云っても、それを実際に安全かどうかを確認するのは、我々パイロットの仕事で、その時には既に大洋上を飛んでいるのですから、万一の場合の対処方法が有りません。それが、空輸パイロットの辛いところです。
 だからこそ、我々がお客様に届けた飛行機が、それだけ余計に安全だ、と確認されたことに成ります。我々が自らの生死を賭けて、飛行機の安全性を最終的に確認したことに成ります。こうして届けられた商品がお客様に満足して頂けるのは光栄です。
寺原 松昭
カナダ トロント

以下は寺原氏より友人へのメールから抜粋して翻訳したものです。
2月23日
 Goose Bay(カナダ)に無事到着しました。中古機ながら性能はなかなか良いようですが、エンジンが何時止まるかとヒヤヒヤしました。又直ぐに出発です。
2月25・26日
 元気でグリーンランドのNarsarsuaqに着きました。飛行機にかなりの故障がありましたが無事着陸出来ました。何故私が死なないですんだのか不思議なくらいです。誰が見ても奇跡です。
 中古機のパイロットは毎日が冒険のようです。エンジンオイルの低圧IndicatorとAlternatorがInstrument Metorological Conditionで飛行中に故障し、死んでもおかしくない状況だったが、幸運にもFjordsのNarsarsuaq空港を見付け、まさに冒険映画を観ているが如くに、管制塔の誘導もなしで奇跡的に無事着陸出来ました。
 今回の飛行は26年経ったセスナ機のテストパイロットをしたようなもので、最終目的地のブルガリアに到着するまで、劣化した部品を交換しながら飛行するようなものです。Goose Bayから他2名のパイロットと一緒に飛び立ったものの、Narsarsuaqに着陸したのは私一人です。
しかし、もう大丈夫で、グリーンランドの自然を楽しめる心境になりました。修理とメインテナンスが終わるまで一週間はここに滞在することになりそうです。
2月27日
 フェリーパイロットとして何が一番楽しいかと聞かれたら、初めて訪れるまちに滞在、しかも長期に滞在出来たら最高と私は答えるでしょう−それも自腹をきらずに。
 滞在しているNarsarsuaq空港近くには漁師波止場があり、世界一と言われる海に流れ込む二十万トン級の氷河もあります。

2月28日
Goose Bayから一緒に飛び立ったリーダー役のパイロットがドイツが連絡をくれました。すぐ米国にもどり、わが機の交換部品手配をしてくれるそうです。
3月2日―6日
グリーンランドは素晴らしい所で、正直なところ部品到達が遅れに遅れて一年滞在になってもかまわない気持ちです。世界最大の島ながら、人口はわずか6万人、島の8割は雪に覆われ、観光資源と未開発の天然資源にも富み、現地人は人種的にはエスキモー・モンゴル・日本人と同じで蒙古斑があるとか。漁業が盛んで、日本は二番目に重要な輸出国のようです。物価は高く、航空機の便も悪いために日本からの観光客は夏場だけに限られているようです。例えば私が滞在している空港近くの二つ星のホテルでも一泊150米ドルもします
(http://www.greenland-guide.gl/mic/hotel-narsarsuaq.htm)。
 私の始めたフェリーパイロットはまさに夢のような仕事です。定期便のパイロットと違い、訪れる先は毎回異なり、空港も其の近辺の気候も初めてのことばかりです。パイロットとして我が身の安全を守るのは、自分の知識と経験だけです。
 Narsarsuaqに着いて既に10日、このホテルに住んでいるのかと人に聞かれることもあります。この空港は、定期的に北大西洋を飛行するフェリーパイロットにとっては、その地理的な条件からとても重要です。急斜面の谷間と内海のある非常に危険な空港で、周辺の状況を良く知るのに、今回の滞在は良い機会となりました。

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2008年3月9日(日)
5.アイスランド着陸断念、スコットランドへ直行

 GPS画面を見ると、代替空港までは残り600海里程、残燃料は、9時間以上あるから、90ktで飛行を続ければ、概ね2時間半分は余分にある計算だ。現高度は1万1千フィート、時刻は0600UTCだから、日の出まではあと1時間だろうか、否々、冬の日の出は遅いし、現位置は西経18度だから、ロンドンより1時間以上は遅いだろう。そうすると、日の出までにあと3時間はあるかも知れない。
0900UTCとすると、それまでの闇夜は長すぎる。一面を覆っている雲の層は、今のところぎりぎり機体の下の方に見えるが、水平ではなく傾いている。前方に向かってせり上がっている様にも見えるし、英国側が高く見える。このままだと雲の中に突入するかも知れない。海洋の水分を含み、湿った洋上の雲に突入して、外気温が変化していけば、機体の各部で凍結が起こるかもしれないから、出来れば雲の中に入りたくない。少し高度を上げておこうか。
東向きの次の高度は1万3千フィートだから、2千フィート程度上昇する必要がある。管制センターに許可をもらっておこう。「スコテイッシュ、こちらセスナXXX号、高度を1万3戦千フィートに上げたい。許可を願う。」と数回呼びかけたが、うまく応答が得られない。そのうちに、中継役の旅客機が、スコットランド管制センターからの高度変更許可を連絡してきた。「ありがとう。」と礼を言い、直ちに高度を1万3千フィートに上げたが、パイロットにとっては酸素の密度が減るので、長時間の飛行には思考能力の低下を充分に注意しておくべきだろう。
眼下の雲は起伏が激しく、大きな山脈の様にも見える。所々山のように盛り上がっている部分に近付くと、そのまま突入しそうで心配になる。しかし、カナダを出発してもうすでに15時間は過ぎた。時々、うつらうつら眠りに落ち込む。簡易自動操縦に入れているので、少しの時間なら眠れるが、30分以上は眠れない。燃料節約の為に、ずいぶん低速で巡航しているから、時々失速速度にも近付く。
30分以上眠る為には、燃料節減飛行を中止し、少し高速飛行に移る必要があるが、それでは多くの燃料を無駄使いすることになる。長距離飛行でパイロットが唯一役立つのは、燃料節減の為だけだろう。何とかこのまま飛行を続けたい。とフッと我に返った・・・。私は寝ていたのである。10分か、20分か・・・、よく分からない。私は身体を震わせて我に返った。「生きていた。墜落はしなかった。良かった。」と、まわりを見渡した。主翼は凍結していないだろうか? 外気温はマイナス7度、グリーンランド付近のマイナス12度から少し上昇して来たようだ。
これから次第に外気温も上昇していくから、たぶん、さらに凍結には十分注意する必要があるだろう。一体対地速度は幾らだろう・・・とGPSの速度計と計算値を見比べると、何と対地速度は47ノットしかない。先程までの半分だ。60ノットを超える強風が南側から、セスナ機の行く手を阻止している様である。対地速度が半分なら、飛行時間は2倍に膨らむということは、約2倍の燃料を消費するから、3時間の行程では6時間の燃料が必要となる。「待てよ。」余分な燃料は2時間半分しかないとすると、2時間半の行程で5時間分の燃料を消費した時に、ぎりぎり目的地に到着出来るか、又は目的地の直前でエンジンは停止することになる。このままなら、多分その状態に陥るだろう。何とかそれを防ぐ対策は取れないものだろうか?
進路を変えて、ノルウエー側に進む?しかし、その場合には、失った位置損失は、最後に回復する段階では、向かい風に正対することにも成り得るだろうし、結果的に非効率であることは予想できる。それならいっそのこと、高度を変えてみるか。これ以上上昇は出来ない。といって、眼下の雲の層を見ると、とても高度を下げる気持ちにもなれない。上昇も出来ないし、降下もしたくない。
「困ったものだ。どうしたら良いのか。」
兎も角、このままの状態が続けば、間違いなく目的地までの飛行がぎりぎりだろうし、もしそこで何か起きたときにエンジンが停止してしまっては、次の手を失うことになる。飛び続けていられれば、何か次の手も対応策もあるだろう。「今出来ることは何だろうか?」上昇も出来ないし、降下もしたくない、しかしこうなってしまっては雲の中に突入することも仕方ないだろう。
それなら雲の下にまで降下してみることも考えてみよう。「スコテイッシュ、こちらはセスナXXX、強い向かい風で対地速度が47ノットしか得られない。降下を試みたい。許可願う。」と問いかけると、残燃料を心配しているらしく、「了解。付近に他機はいない。自由に降下してよし。」と即答が返ってきた。「他機がいない。」というのは、こんなところを飛んでいるのは、「お前だけだよ。」という意味なのか? 確かに夜明け前に、スコットランドの北方を低高度で飛んでいる飛行機が在る訳はないだろう。なんという寂しさか。 機首を下げて加速しながら進出距離を稼ぎ、降下を始めた。すぐに雲の中に突入するだろうか、高度は少しずつ下がっていく。速度が増すと対地速度もみるみる増大する。そして、8千フィートまで降下下が、一向にすぐそこに見える雲の中に突入しないのである。まるで雲が逃げていくみたいなのだ。4千フィートまで降下すると、さすがに雲の中に突入した。外は明るく薄い雲にすぎないが、このまま海面まで突入しては困るから、降下率を下げて、海面が現れるのを待った。やがて、細かく砕けた流氷の浮かぶ海面が眼下に現れた。16時間ぶりの地球の表面である。
海面を見るとなぜか気持ちがホッとした。水平飛行に移ったが、対地速度は90ノットまで回復している。目的地までは、まだ2百海里以上も残っている。このままの高度で2百海里も飛んでは、燃料消費も増大する。少し高度を上げながら、燃費の良い高度を探してみよう。再度上昇を始めた。今の対地速度を維持しながら、どの高度まで上昇できるかということになった。少しずつ高度を上げて、8千フィートまで回復したら、ようやく雲の上に出たので、そのまま9千フィートまで昇って、その高度を維持することにした。突然の降下と上昇で、ずいぶん燃料を消費したが、対地速度は47ノットから90ノットまで回復できたから、この速度なら目的地まで燃料が不足することはないだろう。何とか目的地まで行って、その後の対応にも余裕の持てる燃料が確保されるだろう。
やがて2時間程飛ぶと、前方に雲の切れ間が見えてきた。スコットランド北端らしい海岸線も見えてきた。何という不毛の海岸なのだろうか。見るからに貧相な海岸である。北海道の北端も、空から見るとこんな海岸に見えるのだろうか。森もなく、低い草が生えているだけの海岸に見える。やがて管制官が、「Wick空港と連絡を取れ。」と言ってきた。
「Wick管制、こちらはセスナXXX、応答。」と答えると、すぐに、
「こちらWick管制。今どこに居る?」
「北西30海里の位置から進入中。30分で到着する。」
「進入方法はどうする。」
「目視進入をする。空港の位置が分からない。半島の付け根だと思うが見えない。」
と、背中に面した増槽タンクの中で、空になった燃料ポンプが空気ごとガソリンを吸い込む大きな音が聞こえた。いよいよ最後の燃料タンクの切り替え時がきた。その間に、何度かエンジンが停止しそうになったが、主翼タンクに無事切り替えると、
「Wick空港管制がライトを灯すから、空港を見付けてくれ。」
と言うが、何も見えない。もう高度は5千フィートまで落としているが、まだ空港らしきものは何も見えないし、眼下に人家も見えない。一切人間が住んでいる気配が無いのである。すると、前方に滑走路らしいものが見えてきた。あれだろうか? 私には、畑の中のあぜ道にしか見えないが、道路にしては少し大きいから、たぶん滑走路だろう。そこで、
「空港管制、12番滑走路が見えてきた。もっと大きな空港を予想していた。着陸したい。」
「滑走路12番を与える。自由に着陸してよろしい。」
しかし、である。滑走路は迫ってくるが、高度は5千フィートもある。そこで思い切って機首をふって、機体を傾けて高度を落とすと、みるみる滑走路が近付いてきた。機首を立て直し、滑走路に正対して着陸した。午後1時を過ぎていた。曇りで、地上は強風の中だった。
 田舎風なターミナルに一機だけコミューター旅客機が到着していた。その同じ方向に向かうと、途中から別の場所に移動しろと言うので、古い管制塔のわきを通って、その裏に出ると地上係員が立って駐機場所を示している。案内に従ってセスナ機を停止させエンジンを止め、21時間ぶりの地上に足を置いた。しばらくは飛んでいる感覚が抜けないが、あれこれと到着後の作業が残っている。
後始末を終えて、管制塔のある建物に入り、2階に上がると、コーヒーが待っていた。それを飲んで、気が緩むと突然眠気がして、うとうとしてきた。ソファーに座ったまま、しばらくそのまま休むことにした。やっと仕事から解放されたら、疲労を感じられる様になった。気が抜けたように、その場に座り、温かいコーヒーの湯気をぼんやりと見ていた。
寺原松昭
2008年2月末 記

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2008年3月2日(日)
4.カナダからアイスランドへ−続
本年1月中旬のある日

 この厳冬の時期、何か、暖かい地方への旅行の計画でも、私は考えたいのですが、なかなか適当な旅行プランが、咄嗟に浮かびません。仕方なく、計器画面に映し出された地図の画像を次々に切り替えていると、突然、米国籍の有名な国際航空会社の旅客機が、私の飛行機局を呼び出して来ました。私が、「どうぞ。」と、答えると、実は、アイスランド国のレイキャビック国際空港管制センター局が、現地空港が強風の為に来ないで欲しいと云っていると、長距離通信用無線機を持たない私に対して、その伝言を伝えて来たのである。「来ないでくれ。」と、云われても、私は、その空港に向かって飛行を許可されて、既に、出発して、現に飛んでいるのである。その理由は、風速35メートルの突風に見舞われているという事であった。風速、35メートルと云えば、台風並みの強風であるから、仮に、運良く着陸が出来ても、その後の地上の取り回し走行の間に、機体が横風に吹き飛ばされ横転するだろう。

 と、云って、緊急避難の為の代替空港として、今、一番近い空港を、グリーンランド南端沿いの空港で選ぶとしても、NARSARUAQ(ナルサルスク)空港しか無いということに成るが、グリーンランドの南端岬から片道75マイル(136キロ)は優に有る。往復だと、270キロ以上には成るから、2時間分の燃料代に着陸費用、それに深夜に到着すれば、宿泊代まで費用は膨らむ、

それに、空輸業者としては、本日、たったの10時間にも満たない飛行時間だけで、「本日の仕事は、完了。また明日。」とは、やはり、云えないだろう。収支決算上の配慮からも、もう少しだけでも飛んでおく必要がある。と、すれば、やはり、アイスランド国本島周辺地域までには、どうしても、今回の飛行で到達しておく必要が有るのではないだろうか、しかし、台風並みに発達した低気圧で、風速35メートルの強風なら、小さなアイスランw)ド国全体が、その強風に吹き晒されていると考えられる。アイランド国本島の風下側は乱気流だろう。

 「それなら、最初から飛行計画通りに、指定していたスコットランド地方まで、思い切って、飛行を継続して見ようか。」と、考えて見ました。幸いにも、今回は、客室内に大量の燃料を搭載している筈だから、最初の飛行計画時の計算通りなら、充分に、到達出来る筈だ、と私は考えました。そして、残燃料の算出の為、これまでの消費燃料量を計算し始めると、結果的に、スコットランドまで到達しても、その上に、更に、3時間の燃料が期待出来ることに成りました。特に、本来のコースに従って遠回りをしないで、出来るだけ短距離コースを探し出して、直線的に飛行できれば、多分、何とか、スコットランドまでも飛行出来る筈です。私は、早速、アイスランド国の航空管制センター局に、定期旅客便を経由して、最終目的地の変更を願い出ることにしました。

 運良く、先ほどの国際線の旅客機が、無線の中継通信を寡って出てくれました。その中継無線通信の結果、アイスランド国の航空通信センター局も、今後の、当機の目的空港変更の可能性を心配して、待っていてくれた様です。残燃料量を時間単位で換算して伝えると、「その様な大量の燃料を搭載できる飛行機が有るのか。」と、驚きを持って、問い返して来ました。空輸機だから、可能だと答えても、途中で燃料枯渇を起こすことを心配して、なかなか納得しないので、具体的な燃料量まで、容積単位で答えることに成りました。アイスランド国の管制センター局は、何度も驚き、そして、「スコットランド航空管制に、目的空港の変更希望を伝える。」と、云って、返答待ちの為に無線の中継会話は切れました。

 しばらくすると、「アイスランド国の航空センター局から、「貴機の目的空港の変更を許可する。」と、中継機無しで、直接、伝えて来ました。VHF無線機が届く様に成っていました。しかし、困ったことに、その条件として、長距離用無線機が必要で、私の飛行機に装備されていないので、現地点から、直接、スコットランドに向かって進路を変えて、「完全な洋上飛行状態に成ることは許可できない。」と、付け加えて来ました。「それでは、肝心な、燃料消費削減が出来ないではないか。」と、私は、勝手に、考えましたが、合法的な考え方からすると、責任ある管制センターが許可しないことも、当然のことなのでしょう。しかし、私の確保出来る残燃料量は、大幅に減り、予定通りの量が期待出来ないことに成ります。「困った、もw)のだ。」と、自問自答していたら、いつの間にか、私は、無線交信が出来なく成っていました。「アレ、」と、思うと、同時に、「今こそ、チャンスだ。」と、咄嗟に考え付きました。無線交信の出来ない今が、変針の時です。

 私は、直ぐに、機首を右に切り、アイランド国方向からスコットランド方向に、早速、変針させました。「このままの保針状態で、次に、何処かの無線局に呼び出されるまでの間、兎も角、私は、出来るだけ、スコットランドの方角に進もう。」と、決めたのです。燃料枯渇で墜落して、世間の笑い者に成るよりは、今、この場で得られた千年一遇のチャンスを活用したいと考え付いたのですから、そう成ると、今度は、私の操縦している小型機の遅過ぎる巡航速度が、変に、ジレッたく感じられる様に成ります。「急げ。急げ。」と、自分の心に呼びかけながら、私は、出来るだけ、スコットランド国の在る方向に、ズリ寄って行ったのです。2時間ほどすると、やがて、アイスランド国の管制センターが、定期便の旅客機を中継させて、私の飛行機局に呼び掛けて来ました。「もう少し、時間稼ぎがしたい。」ところですが、その為に、緊急時の連絡に支障があっては、反って薮蛇な結果に成りますから、中継してくれる旅客機に返事をすると、「現在地点を言え。」との、こと。

 「今のところ、それだけは、困る。」と、言いたいところです。「出来れば、その件だけは、後ほどの質問にして欲しい。」とは、云えません。「一寸待て、自機の現在地点を確認する。」と、私は、一言だけ伝えてから、即座に、無線を休止しましたが、内心、本当に困りました。出来ることなら、「既に、当機の位置は、スコットランド側に300海里の地点、このまま、直接、スコットランドに向かいたい。」と、答えたかったのですが、今、私の飛行機の現在位置が管制センターに知られると、折角の進出距離を失い、即刻、既存の航空路コース上に呼び戻される恐れが有ります。「コーデネイト表示(北緯と西経の呼び表示)で答えろ、と云われていましたが、私は、自機の位置線の角度と相対距離で答えました。それを聞いた、管制w)センターも換算出来ずに困った様ですが、私の方は、燃料の消費量を増やしたくないので、更に、もっと、もっと、大きく困っています。当機の位置が確定出来ない管制センター局も、困っている様です。
寺原松昭
2008年1月20日記

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2008年2月24日(日)
3.カナダからアイスランドへ。
本年1月中旬のある日

やがて、北米大陸、カナダ国の東端岸が見えて来ました。しかし、海までが真っ白で、その真っ白な世界が遥か遠くまで、広大に水平線まで広がる眼下の景色、その一面が白銀の世界で、何も、特徴の無いだだっ広い一面全体が、ただ、ただ、真っ白なだけです。この世には、自分以外には誰も居ない様な孤立感を感じますが、景色の見える間の昼間に限っては、反って、それが爽快でも有ります。しかし、夜の暗闇では、それが、きっと、次第に大きな孤独感に変わるのでしょう。そういうことを考えていたら、静けさの中から、突然、管制センターが呼び出して来て、私の提出していた予定コースに従って、洋上のカナダ側の国境線を正確に越える為に、現地点から指定された某地点に向かう様に、航空無線で再確認をして来ました。それに私が答えると、今後のコースを確認する為に、此処からは、海岸線沿いに設置された各地点局のNDB電波を適切に受信出来る様にADF受信機の周波数を調整しました。
 国境を越える地点に近づくと、次第に無線交信の数が増えて、地上無線局から、様々な場合のケースを予想して、それぞれのケースでの無線交信の周波数を指示して来ます。私は、地上無線センター局から指定された周波数の一つずつを丁寧に聞き取って、復唱して回答し、自分のメモとして書き取っておきます。その後も、あれこれと、何度も、何度も、様々な詳細な打ち合わせ作業の様に無線センター局が私の飛行機局を呼び出し、確認を取って来るので、その無線応対だけでも、私には、大変な作業です。すると、間もなく、地上無線センター局からのVHF電波が届かなく成りました。そうすると、今度は、高々度飛行中の国際線旅客機からの無線だけが聞こえる様に成りましたから、私が耳にする無線交信の数が半分くらいに減少し、少し、無線機が静かに成りました。私は、自分宛の無線の呼び出しが無いことを確認してから、長時間、両耳を押さえ付けていたヘッドセットを外しました。

 こうしてヘッドセットを耳から外しておくと、耳が痛くなく、随分、楽です。代わりに、室内天井のスピーカーを作動させておけば、そこから、自分の航空機局の番号が呼び出された時には聞き取れますから、呼び出されてから、ヘッドセットを耳に掛ければ良いと思います。一時間毎に、燃料タンクの切り替え作業を行い、燃料の消費量を確認し、残燃料の点検と計算を行います。機外の主翼下を見回し、燃料タンクの空気抜きパイプから燃料が漏れていないか、目視点検します。今は、摂氏マイナス12度を示している外気温を読み、それから、速度計を見ては、異常無く、正常に作動しているか、を何度も確認します。東に進路を取っていると、日没が早く、間もなく、私の飛行機も日没を迎える時刻に成りました。アッという間に、黄昏の時間が過ぎ去り、室内灯の明かりを調整して点灯する頃には、機外は、既に、真っ暗に成りました。これから、12時間から、それ以上の間は、ずっと、夜の世界だけが続きます。

 これから後、12時間以上、翌日の夜が明ける、それまでの長い時間、自分は、果たして、ずっと生きていられるのだろうかと、考えます。たった一つしかないエンジンが、突然、何かの不具合で停止すれば、最早、そのままの状態で飛行を続けることは出来ません。当然、陸地から相当の距離遠くに離れているのが飛行中の大部分を占め、仮に、たまたまグリーンランド島周辺の陸地に近づいていても、地形が悪く、飛行機が安全に着陸できる最寄の飛行場までは、とても、滑空して辿り着ける筈は有りません。ただ、エンジンが停止しない様に祈るか、燃料を間違いなく、供給出来る様に、燃料の切り替え作業に手を抜かないことです。それでも、万一、エンジン・オイルが漏れれば、エンジンは金属同士を擦り合い、ホンの数分間で、たちまち焼き付いて停止してしまいます。この巡航高度7000フィート程度なら、私が、突然のエンジン停止に気が付いてから、飛行機が、緊急状態で滑空していられる時間は、精々、10分から14分くらいなのでしょう。

 しかし、万一、運悪く、緊急状態に成った場合には、肝心な緊急無線通報の発信作業を含めて、私には、その後、たくさんの操作作業が残されています。もし、万一、誰かがその緊急通報を聞き取って、それに答えてくれたら、私は、いちいちそれに応答する必要すら生じます。その無線交信の間、私の飛行機を、一体、誰が、私に代わって適切に操縦して滑空させてくれるというのでしょうか。その仮定される緊急状態を、恐る恐る想像するだけでも、私は、背筋がゾッとしますが、その状態に陥った場合の操作手順を、今、詳細に亘り、いちいち考える気持ちには成れませんが、しかし、特に、洋上飛行を行う単発飛行機のパイロットには、心の準備だけは、いつでも、必要とされている様です。突然、何か、楽しい事を、私は考えたく成りました。出来れば、南洋の様な、寒くない、温かい地方の体験とか、現在、夏を迎えている南半球のこととか、この時期を暖かく過ごせる旅行のことを考えたいのです。
寺原松昭
2008年1月20日記

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2008年2月18日(月)
2.貴方は、勇敢なパイロットだ。
本年1月中旬のある日

 いよいよ、カナダ東端に在る、本日、摂氏マイナス34度の空港を出発する時刻に成りました。飛行中に計算し易い様に、丁度、正午に出発することにしました。2日前にこの空港に到着して、2日間厳寒の空港に駐機していた我が愛機は、機体全体が、完全に冷え切ってしまっていました。エンジン・オイルを点検する時に、油量ゲージ棒に付いたオイルは、粘性が高く、まるで柔らかいチョコレート状です。それでは、適切な潤滑作用が期待できないので、専用の地上ヒーター機を稼動させて、暖気を冷え切ったエンジン部に導入して、しばらくエンジンを温めて貰うことにしました。御願いすると係員が準備をしてくれます。
 デスパッチ室に行くと、運航管理の係員が、私の作成した飛行計画に従って、予定の飛行コースを点検してくれ、それをFAXで、カナダ航空局に送信してくれました。未だ、出発までに20分以上有ります。装備品や緊急用具を機内に搭載して、飛行中に操縦席に座ったままの状態で手に取れる位置に配置する資料と、後部の貨物室に搭載して、飛行中に使用しない携行品を選別してそれぞれ、便利な位置に格納します。万一、飛行中に使用するものを、誤って、貨物室に搭載してしまうと、飛行中には、増槽燃料タンクで仕切られた後部貨物室まで手が届きませんから、折角の道具や資料が利用できず、大変、不便です。
 再度、携行品の中で残りの荷物を取りに事務室に向かうと、私の行く手の正面に、沿岸警備隊のパイロット服に身を纏った2人の男性が立って、私を見ています。「貴方は、あの小さな単飛行機で、この時期の大西洋を横断する、というのか。」と、聞くので、「その通り、製造された飛行機をヨーロッパに届ける積りだ。」と、答えると、「恐くないのか。」と、続いて聞く、「恐いさ。恐いから飛行中にはずっと震えているよ。そうすれば、結構、暖かいのだよ。暖房機が無いからね。」と、云えば、「貴方は、勇敢な人だ。」と、私の目をジッと見つめる。「貧乏なのさ。」と、私が返事をすると、「何か起きたら、直ぐ貴方を助けに行く。」と、云います。
「否、この季節では、緊急着水すれば、多分、洋上では30分しか、私の命は持たないだろう。」、私は唾を飲み込み、説明を続けた。「だから、急いで来ても同じだよ。」と、私が笑って準備作業に戻ろうと歩き始めると、私の背中越しに後ろから、「直ぐに、救助に行く。」と、機長らしいパイロットが、私に声を掛けた。私は、振り返らず、黙って作業を続ける為に、隣の部屋に荷物を取りに行った。エンジン・オイルを片手に持って、機体の在る駐機場に戻ると、地上ヒーター機のダクトを取り外し、最終的な機体点検を完了して、操縦席に座った。「何か、忘れ物は無いか。」と、自問自答すると、搭載品を確認して、エンジンを始動した、良好だ。

 セスナ社で製造されたばかりの4人乗りの小型単発機が、最終的なテスト飛行を無事に合格すると、それを受け取って、製造工場からヨーロッパに空輸して購入客に届けるのが、私の仕事だ。だから、製造されたばかりの飛行機は、常に、最新型の電子装備品が取り付けられて、その取り扱い操作には細心の注意が必要と成る。時には、理解出来ない操作もあり、マニュアルを読みながら飛行することも有るし、特に、難しい操作には、試行錯誤も起こる。真新なセスナ機の機内は、汚れが一つも無い。呼吸をすると、独特な新造機の匂いが漂って来るほど気持ちが良い。その様な飛行機に乗れることが、何より、我々の誇りなのだろう。
 始動したエンジンが徐々に温まると、エンジンの点検操作を行って、エンジン運転に異常が無いことを確認しておく必要が有る。手順表に従って確認する。次に、管制塔を無線で呼び出し、飛行計画の再確認をしていると、一部の飛行コースに修正指示が出た。修正部分を管制塔と相互に読み合い、繰り返して読み再三確認すると、許可が得られた。走行許可を貰ってから、注意深くエンジン回転数を上げると、最大離陸重量を既に越えている重々しい機体は、機尾を下げた姿勢でのろのろと動き出した。このまま、エンジンを温めながら滑走路に向かい、滑走路の脇で最終点検を行い、先発の旅客機の出発に続いて、私は離陸操作を行った。
 滑走路上には、さらさらとした雪や氷が積もっているが、それが、細かい粒子の様に成って風に吹かれると、滑走路の表面を一定の方向に走る様に流れ出す。その川の流れの様な動きをジッと見ていたら、まるで、自分までが、一緒に吹雪に流される様な不思議な錯覚を起こすから、ジッと見ていられない。遠くに基準点を見つけて、出来るだけ遠くの静止した目標だけを見ることにした。地上滑走中に急ブレーキを使用すれば、機体はたちまち滑走路を外れて蛇行し、滑走路の外に転がり落ちるだろう、と私は心配する。徐々にエンジンを最大回転に上げると、それに従って、機体は徐々に加速して走り出して行く、景色は、たちまち後方に走る。
 機体走行が充分に加速して来ると、一段フラップ作用で、機体が自然に浮遊して来た。操縦席の後ろの追加燃料タンク内のガソリンが重く、機体の重心位置は、予想以上に、相当に後方に在る為、機首を上げ過ぎない様に私は注意して、離陸後の上昇姿勢を決めた。このまま上昇してくれれば、何とか、予定通りの高度に達することが出来るだろう、と思って、ようやく、一安心だ。エンジンの音は、私の心配を他所にすこぶる快調だ。西向きに離陸したので、管制塔の許可を貰って、東向きに進路を変える。離陸した滑走路全体が眼下に小さく成って見える。点検表を見て、離陸後の操作確認をする。まだ、大西洋は遠く、私に見えない。
寺原松昭
2008年1月19日記

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2008年2月8日(金)
1.初仕事はセスナ機でドイツへ
今日のトロントは、朝から驚くほどの良い天気。明日、モントリオール国際空港に、セスナ社で製造されたばかりの高性能な小型機が先着して、私の到着を待っていてくれる予定。素晴らしいばかりの最新電子装備を持った洗練された単発機だ。明日細かい指示内容を点検して準備するが、32年間も掛けて準備出来ているので対応は完璧。
受け取ったセスナ機で、土曜日以降、多分、日曜日にカナダ国東端のグース・ベイ空港で親方の機を待ち合わせ、2機で一緒に出発することになる。2機で無線連絡を取りながら飛行出来るので、精神的には非常に楽だ。単独の場合の一割の疲労で済むから、初仕事は観光旅行の様なもの。
火曜日にはアイスランド国のレイキャッビク市で、翌日そこからドイツ国にも入れるが、途中で天候待ちが生じると、それだけで一週間の行程に延びてしまう。天候は以前より随分良く成っている。小型機での大西洋上飛行は、グリーンランドの中央より北の飛行ルートを取るのだが、ここ2週間の大西洋上空は大型の低気圧がはびこっていて、とても小型機が飛べる気候ではなかった。唯待つしかなかった。無理して飛べば死が待っているが、日和を待てばまた飛べる。それが小型機のパイロット。

そんなことで、今日まで18日間も待機するだけで過ごしてしまった。何の変哲も無い木賃宿のようなトロントのホテルも、その隠れ家的な棲家で、このまま去るには一抹の寂しさもある。でも、明日は黙って出て行こう。日本の留守宅に残した愛犬の病状がふと心配になった。
今日の街では、ホームレスの様な男達が、昨夜降り積もった雪の、雪かきをしていた。恐らく小遣い銭稼ぎをしていたのだろう。日本と違い住民が、結構ホームレスに対して温かいようだ。愛媛の出身だという娘さんにも出逢った。ワーク・ホリデー制度を利用してトロントに来て一週間という。海外生活の経験はないとかで、心細いと言っていたが、私から見ると逞しく動き回っているように見えた。
(寺原氏は飛行準備で多忙なため、友人が彼から受け取ったメールを編集。)

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<ブログの紹介>
 一般には余りなじみのない“フェリーパイロット”。生産された高額な航空機をメーカーから発注主である顧客に、直接、届けるのが主な仕事。
小型飛行機については、製造技術もマーケットも米国が断トツで世界一。米国から欧州に飛行する小型機フェリーパイロットは十数人しかいないらしい。
寺原松昭さんは、今年からその一人として、現在カナダ在住。天候不順な大西洋の小型機での洋上横断飛行には20時間以上かかり、成層圏を飛行しないので危険が多く、リスクの大きな冒険らしい。それを敢えて挑む、寺原さんの胸のうちは? 飛行の合間に、欧州各国とカナダ国から、都度、寄稿して頂くこととなった。

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<目次>

1.初仕事はセスナ機でドイツへ
2.貴方は、勇敢なパイロットだ
3.カナダからアイスランドへ
4.カナダからアイスランドへ−続
5.アイスランド着陸断念、スコットランドへ直行
6.グリーンランドで緊急着陸
7.長引くグリーンランド滞在と仲間機の墜落?
8.グリーンランド脱出、ニューファンドランドへ
9.小型ジェット機でグリーンランドからカナダSt.ジョーズへ
10.神秘的な冬の北極圏
11.新コンセプト機のテスト・パイロット役
12.ターボ・デイーゼル機でオランダへ
13.小型機フェリー中のリスク
14.短距離用セスナ機で大西洋横断を試みる
15.私は醜いアヒルの子?
16.不思議な島ファロ(エ)ーに着陸
17.不思議なファロ(エ)ー諸島
18.またしても不思議なセットランド諸島
19.日本より百倍巨大な米航空業界
20.日米のパイロット免許
21.若い仲間達
22.ベルファストへの旅
23.英国の日本人女性パイロット
24.パリの日本人パイロットのお化け
25.ルーマニア
26.変な日本語喋るアイスランド国の整備士さん
27.変な日本語喋るアイスランド国の整備士さん(続)
28.第一線パイロットの想像をも越える長距離飛行を実現
29.007は、果たして二度生きるのか、それとも二度死ぬ、のか
30.昔を懐かしめば
31.米軍と自衛隊の戦闘能力の違い
32.インド人パイロットの促成昇格と、日本のお粗末パイロットさんの例
33.小型機の高速化傾向が助長されると
34.日本のコミューター航空が存続する難しさ

寺原松昭プロフィール


(略歴)
幼少の頃から飛行の原理と飛行機そのものに興味を覚え、大学の卒論は軽飛行機の設計論。卒業後は全日空で航空機関士訓練生・航空貨物・整備部品発注・エンジン修理管理など多面的な地上職業務を担当、27年の勤務後に早期退職。その間に米国で取得した、小型ジェット機操縦資格を含む数々の操縦ライセンスを活用し、今年から長年の夢であった国際間飛行専門のフェリーパイロットに従事することと成った。米国製の小型飛行機を、大西洋上を横断飛行して、欧州各国に届けるのが任務。工学院大卒。
1950年生れ。

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